皆さん、こんにちは。
中井由梨子です。
昨日の土曜日。本当に多くの方が劇場に足を運んでくださり、多くの会館で満員となりお入りになれない方も数多くいらっしゃったとお聞きしています。皆様、本当にありがとうございます!
また、昨日はUSシネマ千葉ニュータウンにて、17時10分〜の映画「20歳のソウル」上映前に秋山監督のトークショーが行われました。
急遽、客席にいた宮下涼太も加わり「20歳のソウル」を観劇に来た方々からの質問コーナーにお答えしました。映画「20歳のソウル」のお話や、俳優陣の撮影当時のエピソードなど、なかなか普段は話さないようなお話もさせて頂きました。
たくさんの方々にご来場頂き、誠にありがとうございました。
この映画はぜひ劇場で御覧いただきたい。
大義くんが振る旗を、大空を大画面で見ていただきたい。
市船サウンド溢れる音楽を、5.1サラウンドで体感していただきたい。
少しでも多くの皆様に御覧いただけますように、どうぞ引き続き、お声をお聞かせください!
#20歳のソウル の発信は、関係者一同、可能な限り追いかけさせていただきます!
さて、今日は連載四回目。
一回目の、溢れんばかりの取材を終えて、私はノートを書いていました。書きながら高橋先生の言葉を思い出し、気づいたことがたくさんありました。また、当時先生はblogを書いていらっしゃったので、その中の言葉からも多くを受け取ることができました。
先生のblogを引用させていただきながら、ご紹介します。
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「浅野大義が、これほどまで人々に愛される理由。それは、自分を後回しにして人を思いやって生きて来たから」
私はしばらくの間、先生のこの文章を見つめていました。自分を後回しにして人を思いやることができた優しい青年。生きていた時間、彼が人に捧げた時間は人生最後のセレモニーの時に、皆から返ってきた。そんな考えが浮かびました。
私はもう一度、朝日新聞の記事を検索しました。告別式の動画をもう一度再生して見てみました。皆が奏でる『市船soul』は、最初に聞いた時よりも悲しい音に聞こえました。演奏者たちが泣いているから音も泣いているのだと思いました。その涙が、先生の仰るような浄化となり、悲しみが祈りへと変わっていったのでしょう。本来、葬儀とはそうあるべきなのだと改めて思いました。
悲しみよりも強いのは祈り。私たち全員がいずれ必ず死ぬからこそ、送り出す者に必要なのは希望に向かうための願いなのだと。大義くんは、最後まで周囲に明るい光のようなものを届けていったのだなあと漠然と感じました。
この一月、高橋先生は折に触れて大義くんのことを書いていらっしゃいます。先生が大義くんの死の意味を、心と体でじんわりと受け止めていかれている様子が伺われます。
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二〇一七年一月二十四日
『浅野大義は大忙し!!』
「忙」という漢字。
りっしんべんです。りっしんべんは「心」という意味です。
私は折にふれ、生徒へ「忙しい」の「忙」の字は「心を亡くす」と書く。と言って来まし た。だから、みんな、忙しい時こそ心を大切にしようね、と。心を亡くすことは怖い。忙しさのせいにするのは、やめようね、と。
今回、大義が亡くなり、別な意味を思いました。
「亡くなった方は忙しい。」です。
きっと、これから沢山の方々が、何かある度に大義に話しかけると思います。
「大義、守ってね。」
「大義、助けて。」
「大義、いつもありがとう。」
願いを伝えたり、祈ったり、感謝をしたり、実に多くの人たちが日常の中で大義に話しかける。
それをいちいち聞く大義は大忙し!!
大義は、みんなの思いを聞きながら、みんなの中で生きていく。きっと誠意を持ち、丁寧に聞いてくれる。既に私は、もう大義、力を貸してくれと頼んでしまった!
「忙」という漢字は、
「亡くなられた方が皆の心のすぐ横に寄り添い、その気持ちに応えるから、忙しくなる。」と別な意味を思いつきました。
ちなみに「忘」という漢字。
心が下になり、亡くなられた方を思い出すことさえ消えてしまう。願いごともしなければ、祈ることもない。すっかり自分の心から消えてしまった状態。だから、忘れてしまう。
大義の場合、そんなことはありませんが。
大義は大忙しだと思います。そして、大義のことだから、一つ一つ誠実に応えてくれていると思います。こりゃ大変だ。本当に大義は大忙しだー!顔晴れ大義!!
亡くなった後も忙しくしていられるか。つまり、それは亡くなった後も必要とされているか、それとも亡くなった後はヒマになるか。つまり、それは必要とされていないか。
それは今生きているこの瞬間、瞬間をどう生きているかにつながっていると、改めて大義に教えてもらいました。
ありがとう。
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大義くんがいるであろう空に向かって、高橋先生が手を合わせて「大義、頼む!」と言う様子を私は想像してみました。大義くんは空から「分かってますよ、先生」と言わんばかりに笑って見守っている。そんな光景が頭に浮かびました。
亡くなった後も必要とされるかどうか、人間の価値はそこで決まると、私も思います。生きている間に持っていた物質的なものは何一つ残りません。その人が生きていた証は、物ではなくて、残された人の心の中にいつまでも忘れずに、自分が存在し続けることなのです。
そのことを、まさに先生も書いていらっしゃる記事があります。
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二〇一七年一月二十八日
『自分の価値』
大義の告別式。
あの時、誰もが自分自身のことを考えたに違いない。
自分が亡くなった時、どれだけの人たちが本当の涙を流してくれるのかと。
本当の涙 = 人の為に生きたか
と大義は教えてくれました。
とてもとても大切なことを教えてくれました。
人から愛されたいのなら、
人を愛するのだと。
人に求めるのではなく、与えるのだと。
教えてくれました。
死んだ時に自分の本当の価値がわかります。
自分の生き方が問われます。
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先生の文章を読んでいると、どの記事を書かれている時も先生は、誰かに訴えているというよりも自分自身と対話してらっしゃるように思います。敵も味方も自分の中にいて、その自分と常に対話している。生き方を確認しているような気がしました。そして、それはいつまでも答えは出ない。「これでいい」と言えるところまでは到達していない。だから、日々問い続けている…そんな印象を受けました。
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ただいま、大ヒット上映中「20歳のソウル」引き続き劇場でお待ちしております!
※中井由梨子が『20歳のソウル』を書くにあたり取材した記録。当時の様子が鮮明に書かれています。取材ノートのため、『20歳のソウル』に登場する人物以外の実名は伏せてあります。
©2022「20歳のソウル」製作委員会