『20歳のソウル』Production Notes

アーカイブ:2022年6月
2022.06.24
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皆さん、こんにちは。

中井由梨子です。

 

昨夜は、前夜祭の行われた思い出のTOHOシネマズ日比谷でラストソウルを見届けてきました!たくさんのお客様が来てくださっていました。本当に嬉しかったですし、とても美しい映画館で4週間もかけていただいことに心から感謝します。ありがとうございました!そして、まだ上映は続きます!都内でも数か所の劇場様が上映を続けてくださいますので、まだまだ「20歳のソウル」「おかわりソウル」お願いします。

『誰も知らない取材ノート』の告別式の章、最後の部分です。原作にも映画にも描かれなかった、それぞれの「それから」の時間。ぜひ、共有してください。

 

※※※

すべてが終わった後、ユナさんは号泣しました。思う存分泣きました。忠義さんの配慮で、市船生たちのために会食室で食事がふるまわれました。市船生たちは言葉少なのまま、涙の残ったまま、食事をしました。高橋先生は大義くんの車を見届けると、すぐに学校へと帰っていきました。「それじゃ」と何かを振り切るように手をあげて。

それから、164人の吹奏楽生たちは自分たちの日常へ、人生へと戻っていきました。

Aさんは、今でも緊張する場面になると、空を見上げるそうです。そこに太陽が輝いているのを見ると「大義が見守ってくれている」と安心する、と話してくれました。

ユナさんは、ふと大義くんのLINEを見返し、LINEの電話マークを押しそうになります。卒業後も「ユナ~、あのさ~」と電話してきては恋愛相談をしてきた大義くん。反対に何か困ったことがあると「大義~」と連絡すると必ず「何?」とすぐに返事を返してきてくれたことを思い出します。大義がいない、ということが、時折とても寂しくなるときがあります。

Yさんは、大義くんが最後の入院をする前、「渋谷まで車でドライブしない?」と言われたことを時折思い出します。その時「いいよ」と言いながら、途中で車を出すのが面倒になり結局ドライブはやめて地元で食事をしました。しかし、それが元気だった大義くんとの最後の思い出となりました。たったそれだけのことが、今もずっと心にひっかかっています。あの時。なぜ車を出すくらいしてやれなかったんだろう。どうして面倒になったんだろう。だから、今は目の前にいる人を大切にしたい、そう思っています。

Nさんは、ここぞという場面では、大義くんといつも本番前にやっていたおまじないを思い出します。拳で心臓をトン!と叩く気合入れ。演奏中で間違ったら、チラッと自分を見て「間違ったな?」と合図を送ってきた大義くん。今も力が欲しい時、自分で自分の心臓をトン!と叩きます。間違ったらまた大義くんに「おい」って言われてしまうから、と。

 

Iさんは、大義くんの戒名が素晴らしいと思いました。

「大奏院響応日義信士」

大、奏、響。この名前なら、どこの世界に生まれ変わっても音楽をやる人だとすぐ分かる、だからどこの世界にいっても彼なら大丈夫。そう思っています。

 

Sさんは、満月を見ると大義くんを思い出します。大義くんが亡くなった日、きれいな満月を見上げていたから。今でも時々月を見上げると大義くんを思い出します。見守ってくれていると感じます。「頑張れよ」と言われている気がします。

 

高橋先生は、忠義さんが作った『市船soul 大義』という文字が入ったオリジナルのタオルを大事に持っています。コンクールのステージで、先生はそのタオルを譜面台に置きました。「大義、頼むな」と心で念じました。指揮棒をふり、演奏が始まりました。その瞬間、先生は、大義くんの姿をはっきりと見ました。彼は三年生の時、いつも一番後列の真ん中の席にいました。その場所に、はっきりと大義くんの姿が見えたのです。みんなと一緒にトロンボーンを吹いていました。先生は胸が熱くなりました。

 

葬儀を担当した木村さんは、全力で大義くんの葬儀を終えて、明らかに自分の価値観が変わっているのが分かりました。「絶対無理だ」と思っていた164人での演奏は、見事に成功しました。全てが終わり、時計を見ると予定の時刻通り。高橋先生をはじめ、吹奏楽生たちがこの演奏の目的を誰一人勘違いすることなく、規律のとれた行動をした結果でした。木村さんはそれまで、自分の仕事のモットーを「リスクを最小限におさえて円滑におさめる」ことだと信じていました。失敗すると取り返しがつかないことだからです。しかし、大義くんの告別式を経て、モットーは「最大限のリスクを冒しても、人の心に寄り添う」ことに変わりました。たった一度の葬儀だからこそ、取り返しがつかないからこそ、全力で人の想いに応えることが、自分の役目だと実感したのだといいます。

「五十を過ぎて、二十歳の若者に教えられました」

 

そう言った木村さんの笑顔を見て、私は高橋先生の言葉を借りて、心の中で大義くんに言いました。

大義。

大きい男だ、君は。

 

 

 

 

※※※

 

ただいま、絶賛上映中「20歳のソウル」引き続き劇場でお待ちしております!

 

※中井由梨子が『20歳のソウル』を書くにあたり取材した記録です。当時の様子が鮮明に書かれています。取材ノートのため、『20歳のソウル』に登場する人物以外の実名は伏せてあります。

 

2022.06.23
最新情報

皆さん、こんにちは。

中井由梨子です。

 

いよいよ本日で、多くの映画館が『20歳のソウル』の幕を閉じるそうです。訪れてくださった多くの皆様、ありがとうございました。まだ都内でも地方でも、月末まで上映を続けてくださる劇場さんがあります。引き続き、大義くんに会いに行ってください!

前回に引き続き、2017年の1月、大義くんの告別式当時の様子を細かく記したノートを掲載していきます。原作『20歳のソウル』に書かれている内容よりもかなり詳しく書かれたノートです。今日の内容は、あまりに生々しくセンシティブな内容です。本名は伏せてあります。大義くんのお母様と高橋先生の許可をいただいて掲載させていただいておりますが、読み返すと自分でも胸に突き上げるものがありました。

大義くんの物語が音楽のように永遠に伝わることを願って。

※※※

14日、ユナさんはすぐに会場となるゆいまき斎苑を訪れ、担当の木村さんと話をしました。その会場の広さを見て、楽器演奏は難しいと思ったそうです。木村さんもさすがに前代未聞のお願いにびっくりしたそうです。

「何名くらいで演奏するんですか」

「まだ分からないんですけど…百名くらいかも…」

「それは…難しいですね…」

「なんとかお願いします」

ユナさんは頭では無理と分かっていてもなんとかできないかと考えていました。皆からは次々に参加の連絡がきます。中心となるのは自分たち赤ジャ。しっかりしなければと自分を奮い立たせます。しかし、一人では限界があります。助けを求めるとかつての同期、先輩が当たり前のように集まってくれました。大人数なので、練習の段取りを細かく考えておく必要があります。集合場所、時間、集まったみんなをどうやって学校に入れるか。細かいところまで相談し、楽器係や譜面台係と担当をつくりました。

参加予定人数は百名を越えると見込まれました。

ユナさんたちは膨大な量の楽譜を学校でコピーし、準備しました。譜面用のファイルは部活を引退したての「真映たちの代」が貸してくれました。卒業生の中には自分の楽器を持っていない人もたくさんいます。現役の「未来たちの代」が嫌な顔ひとつせず、自分たちの使っていた楽器を貸してくれました。19日の午後7時に集合し、全体での合奏練習を午後8時に開始すると決めました。大義くんの同期、赤ジャのメンバーはほぼ全員が集まりました。

どうしても仕事や遠方などで行けなかった三人以外の二十七名です。参加者の中の一人、Kさんは美容師になっていました。19日の練習日と告別式の21日にお休みが欲しいと言いましたが、通常冠婚葬祭でのお休みは1日だけ。ましてや身内ではなく友達の葬儀と知ると、なかなかお休みをもらえませんでした。

「ただの友達ではないんです、市船の仲間は。家族なんです」

Kさんは二時間、熱心に店長に訴え、やっとお休みをもらうことができました。当時一歳の子供を両親に預けて参加したIさんは言います。

「友達ではないんです、私たちは。仲良しこよしの友達じゃない。他の人に大義のことを理解してもらえないのは、ただの友達だと思われてるから。でも私たちは、いろんなことを一緒に経験してきたから、その絆は友達ではないんです。その深さを理解してもらえない」

それぞれがそれぞれの場所で「大切な人」のために頭を下げ、自分の仕事を切り上げ、時間を割きました。どうしても来られなかった人たちも、ギリギリまで頑張っていた人も多くいたことでしょう。心は皆と共にあったに違いありません。告別式の演奏に、仕事でどうしても行くことができなかったAさんは、後悔と共に振り返ります。

「どうしても行けなかったんです。でも行きたかった。その後悔があるから、今、大義のためにできることは何でもやりたいんです」

そう言って、私の取材にも快く協力してくださいました。私は、その人の心に寄り添う行動や気持ちがこんなにも溢れていることに感動しました。ユナさんも高橋先生と同様に、「大義じゃなくても仲間なら集まった」という所以はここにあると思いました。それが大義くんが愛した『市船魂』なのです。

演奏の曲目は、どの代も一度は演奏したことがあるものを選びました。

「魔女の宅急便」

「星条旗よ永遠なれ」

「手紙」

「夜明け」

そして、出棺の時には、大義くんの「市船soul」。

楽器がどうしても手に入らなかった人や、もう長く扱っていないという人は、合唱のみで参加した人もいたそうです。19日の午後7時、約束通り皆学校に集まりました。参加者百人、という知らせを受けて木村さんは焦りました。「どうにか人数を減らせないか」と相談するつもりで、市船にやってきたそうです。が、来てみると集まった人数はさらに増えて140人。木村さんは内心「どうしよう」と思っていたといいます。

全員は一度、渡り廊下に集合しました。Nさんもその場にいました。大義くんと特に仲が良かったNさんに、何人もが「大丈夫か」と声をかけてくれたそうです。しかしNさんはずっと実感がなく、曖昧に「はい」と応えるだけでした。ユナさんは、集まってくれた面々を見ながらしっかりしないと、と思っていました。しかしその中には尊敬する先輩方もたくさんいます。全員が、ユナさんが話すのを待っていました。ユナさんは緊張で足が震えたといいます。

「皆さん忙しい中、来てくださってありがとうございます。久々に会う人も多くて、同窓会気分になっちゃうかもしれないけど、高橋先生の仰るように、それは違います。今日集まった目的は、大義のためです。大義の大好きな音楽で送り出したい。みんなも、そういう気持ちを持ってきてくれたと思うので、どういう練習にすればいいのか、自分たちで考えて行動してほしいです。練習が成功しなければ本番は成功しない。今日が絶対に重要です。少しでも無駄な時間があってはいけない。大義を最高の形で送り出したいです」

誰もが、ユナさんの言葉を真剣に聞いていました。「練習が成功しなければ本番も成功しない」とは素晴らしい言葉です。ユナさんはじめ、みんなの中には「ただ集まってやるだけでいい」という感情論は決してありませんでした。「良い演奏をする」「成功させる」という気持ちで臨んでいました。大義くんに、最高の音楽を届けたかったのです。みんなも同じ気持ちでいてくれたとユナさんは振り返ります。とても静かに練習に入りました。

傍でこの様子を見ていた木村さんは、「とても断れない」と思ったそうです。高橋先生と打ち合わせし、どういう配置にすれば全員が入り、段取りよくいけるか、式場の図面を広げていろいろとよく話し合いました。木村さんは「もう後にひけない、やってやる」と思っていたそうです。

午後8時。全員が音楽室に揃い、高橋先生が指揮台に立ちました。全員が、最初の音合わせのBの音を一斉に鳴らしました。その音を聴いた瞬間、高橋先生はこみ上げてくるものを我慢することができませんでした。目から大粒の涙が零れ落ちます。なかなか指揮棒を振ることができません。皆も堰を切ったように泣き始めました。こらえていたものが噴き出したようでした。しばらくの間、泣いて泣いて、ただ泣いていました。

Hさんは、泣いている皆の中で一人、自分だけがポツンとしていると感じました。涙が出ないのです。ただ、ぼんやりしているという感覚でした。それはNさんも同じでした。自分ひとりだけが感情をどこかに置き忘れてきているんじゃないかという錯覚を起こすほどに何も感じなかったというのです。

私は、この二人の話を聞いて、ぽっかりと開いた穴を想像しました。HさんとNさんにとっては「いて当たり前」のはずだった存在が、少し会わない間に、あっという間に消え去ってしまった。この喪失感が穴になり、感情が追い付かないのだろうか、と分析しました。

やっと落ち着いて、演奏の練習が始まりました。黙々と、皆で音を合わせていきました。数年のブランクはすぐに取り戻すことができました。全員の音が先生の指揮に集まり、音が重なってまとまっていきます。その日の練習は午後10時すぎまで続き、ユナさんたち幹部6人は終電間際まで打ち合わせをしました。

通夜の日。

訪れる弔問客の中に、Iさんの姿がありました。たった一人で夜に焼香に訪れたといいます。高校時代、いろんなことがあったけれど、同じように作曲をして音楽を勉強していた仲間だったからこそ、志半ばで…という思いがこみ上げました。12月の定期演奏会で大義くんがIさんに「(演奏会の)曲、作ったの?お疲れ。けっこう、やり直しさせられたんだって?」と笑いながら話しかけてきたことを思い出しました。その時は「お前、皮肉かよ」と思ったのですが、それもすべて過去のことになってしまいました。最後に病室を訪れた時、大義くんの枕元に楽典が置かれているのも思い出しました。大義くんは「暇だから」読んでいたらしいのですが、その内容はとても難しいものだそうです。それを彼は読んでいた…と思った時、「あの本、どこまで読めたのかな」という思いが胸に湧きました。最後まで読めなかったかもしれない。Iさんはただ無念さに立ち尽くしていたそうです。

Nさんも焼香に訪れました。

夜でしたから人もまばらになり、身内の方しかいませんでした。Nさんはお棺に近づき、大義くんの死に顔を眺めたそうです。最後の挨拶を、と思いましたがなんの言葉も浮かんできません。ただ、見慣れたはずの大義くんの顔をじっと眺めていました。頭が空っぽのまま、時だけが過ぎていきました。

2017年1月21日。告別式の朝。

午前7時に、木村さんは会場を開けました。この一週間、あまり寝ていませんでした。寝てもすぐに起きてしまったり。眠りが浅かったり。隣で眠っている妻に心配されるほどでした。演奏が成功するか、大人数をしっかりと仕切れるか。何より、大義くんの身体は保ってくれるか。しかしその日まで、大義くんはしっかり頑張ってくれました。きれいな死に顔のまま、祭壇の前に花々に囲まれて眠っていました。

午前8時。

ユナさんたち幹部が到着します。楽器のトラックが到着し、次々と楽器を会食室へと運びました。木村さんの配慮で市船生だけの献花が行われました。Sさんは大義くんの顔を見て「これは大義じゃない」と思えてしまったそうです。空っぽの殻にしか見えない。本当の大義はどこか別の場所にいるはず、と。

「告別式の朝、早く行って大義に対面して、触ってみたりしたけど、どう見ても大義に見えない。大義はここにいないと思いました。みんなに聞いてみたら、大義は一緒に演奏してるっていう人もいれば、見てたっていう人もいます。どちらにしても、あそこに横たわっていたのは、殻だと思った。この塊は何なんだろうと思っていました。だから、悲しみをどうやってぶつけたらいいのか分かりませんでした。でもみんな自然に泣いてしまった。そしてひたすら演奏をする。そうするしかなかった、この殻を送るために」

午前11時。葬儀が始まりました。

読経、弔電、喪主挨拶と続きます。市船生たちは会食室でじっと待機していました。最終的に、演奏のために集まった数は、164人となりました。ユナさんは、演奏が終わるまでは、とにかく踏ん張ろうと思っていました。自分は、この164人を束ねる立場にあるのです。泣いてはいけない、泣いてはいけないと心に言い聞かせて、木村さんはじめ式場のスタッフと連携して演奏の出番を待っていました。式は滞りなく進みました。

正午。告別式です。

一気に椅子が移動され、市船生たちは楽器を持って式場へ移動しました。余計なおしゃべりは一切ありません。厳かに列をなして進んでいきます。大義くんの棺は式場の真ん中に移動され、演奏会と同時に家族と親戚による献花が行われる段取りになっていました。

忠義さんの旧友が、ビデオカメラを回しました。大義くんの幼い頃から思い出を映像に残してきた彼は、大義くんの最後の瞬間も映像にとどめようと必死に回し続けました。しかし、こみ上げてくる涙と悲しみでカメラはぶれ、何度もやめようかと思いました。しかし最後まで撮り続けました。私が最初にみた映像は、この映像だったのです。普通は、葬儀を撮影することはありません。それが忠義さんの友情により、奇跡的に残されたのです。吹奏楽部164人の演奏も全てが撮影されました。

 

大義くんを囲むような形で全員が配置につきました。祭壇前に、高橋先生が立ちます。一斉に式場に鳴り響くBの音。ゆっくりと先生が指揮棒を振りました。一曲目は宮崎駿のアニメーション映画『魔女の宅急便』のテーマ曲です。何度も演奏した思い出の曲です。廊下にも弔問客が溢れ、じっと演奏を見守りました。先生も演奏する市船生も、泣いて演奏が止まってしまうことはありませんでした。頬を涙がつたっても、誰も手を止めませんでした。ひたすらに吹き続けました。Nさんは合唱で参加しました。壁際に立って、演奏するみんなを眺めていました。音がゆっくり流れているように感じました。もう終わるんだな、これで本当に終わるんだな、と思いました。やがて『手紙』の合唱が始まりました。静かにお棺の蓋が開けられます。大義くんのご家族、親族が献花をしました。

「今負けそうで泣きそうで消えてしまいそうな僕は」

何度も歌ってきたはずの歌詞が、みんなの心に突き刺さっていきます。棺にすがって泣き崩れる千鶴さんの姿がありました。愛来さんは棺に近づき、最後のお別れをしようと思いましたが何も言葉になりませんでした。ただ涙が後から後から零れ落ちました。

「大義の声が足りないと思いました」

Aさんが振り返ります。歌うことが大好きだった大義くんは、合唱の時間も大きな声で朗々と歌っていました。いつもすぐ傍で聞こえていたはずの大義くんの声だけが足りない。

「頭の中では聞こえるんです、でも大義はどこにもいない。変な感じでした」

棺の中の大義くんの胸には、「ユナたちの代」で作った市船のオリジナルタオルがかけてありました。大義くんの字で「市船吹奏楽部」と書かれてあるタオルです。ペンと新しい五線譜も入っていました。「これからも曲、書くんだね」と語りかけました。

 

いよいよ出棺の時となりました。

高橋先生が皆に大きな声を出します。「それでは元気に大義を送りたいと思います」皆は一斉に楽器を構えます。この悲しみに打ち勝ってちゃんとやろう、いい演奏をしよう。そんな姿勢でした。そして今この時を大切にしようという心も。

「大義が作った曲だ。いくぞー!」

疾走感のあるドラムの音とドンドンドンと響く大太鼓が高らかに打ち鳴らされました。

「大義、大義、大義!」

「攻めろ、守れ、決めろ、市船!」の掛け声の部分は高橋先生の提案で大義くんの名前を呼びました。力の限りみんなで呼びました。勇ましく闘いを鼓舞する応援曲は、泣いているように聞こえました。

『市船soul』の中、大義くんは静かに式場をあとにしました。桂子さんは何度も何度もみんなに頭を下げ、千鶴さんに身体を支えられて出ていきました。高橋先生は手を上げます。最後の和音が響き渡りました。「市船魂ここにあり!」の和音です。

 

愛来さんは、親族と共に火葬場へ同行しました。最後の最後まで大義くんを見届けようと思っていました。人数の関係で高橋先生と赤ジャとトロンボーンパートの人だけが階下に降り、大義くんを乗せた車を見送りました。

 

雲一つない晴天の真っ青な空の下、大義くんはみんなのもとを去っていきました。

 

 

 

※※※

 

ただいま、絶賛上映中「20歳のソウル」引き続き劇場でお待ちしております!

 

※中井由梨子が『20歳のソウル』を書くにあたり取材した記録です。当時の様子が鮮明に書かれています。取材ノートのため、『20歳のソウル』に登場する人物以外の実名は伏せてあります。

 

2022.06.18
最新情報

皆さん、こんにちは。

中井由梨子です。

 

今月23日で上映が終わってしまった劇場が数多くあり、とても寂しい限りなのですが、皆様のお声でまだまだ上映を続けて下さる劇場がまだあるということをお聞きしています。また、「セカンドラン」という言葉があり、もう一度この映画を皆さんのもとにお届けできるように、まだまだ頑張りたいと思っています。どうぞよろしくお願いします!!

 

ここから数日に分けて、2017年の1月、大義くんの告別式当時の様子を細かく記したノートを掲載していきます。原作『20歳のソウル』に書かれている内容よりもかなり詳しく書かれたノートなので、伝えたかった多くのことが伝わる気がしています。取材したゆいまき斎苑の担当者、木村さんは大義くんのご葬儀を通じて、自分の人生観も変わったといいます。

 

※※※

大義くんの葬儀が行われたゆいまき斎苑は、新京成線三咲駅から徒歩二分ほどのところにあるこじんまりとしたアットホームな葬儀場です。大義くんのご実家、二和向台の隣駅。

朝早くから私のアポイントメントに対応して待っていてくださったのは、大義くんの葬儀をご担当なさった木村剛さん(古谷式典株式会社)でした。

「ようこそいらっしゃいました」

と深々と頭を下げられ、私も恐縮してしまいます。整備された綺麗なエントランスからエレベーターで二階の葬儀会場へと向かいます。この会場には式場は一つしかなく、したがって一回に一家族の葬儀しか行えません。その環境だったからこそ、吹奏楽部の演奏ができたのは間違いありません。

エレベーターを降りるとすぐ右手に広がっているのが式場です。お伺いすると三十七坪という広さで、足を踏み入れてみると想像以上に狭いのです。この小さな式場に百六十人が楽器を持ってどうやって入ったんだろうと素朴に疑問になります。

「告別式が終わってから十分後には演奏がスタートしました」

たった十分ですか、と私は何度も聞きました。その日、担当の木村さん含め十名のスタッフが総出で椅子移動などを素早く完了させ、楽器を持ち込み、速やかに演奏が始まったというのです。その統率力は素晴らしかったと木村さんは話してくださいました。

会場の入り口には、イーゼルにかけられた大きな似顔絵がありました。これはゆいまき斎苑が独自に行っているサービスで、故人の遺影をコンピュータを使って似顔絵風に作成し、会場入り口に置いて故人を偲んでいただいているそうです。通常はそれだけなのですが、その日、木村さんはふと思いついて、その似顔絵の額縁のアクリル板を外し、近くにペンを置いてみました。すると自然な流れで、誰かがそのペンで大義くんの似顔絵の近くにメッセージを書き始めたのです。やがてメッセージの寄せ書きは長蛇の列となりました。

「バイバイ大義ちゃん」

「また会おうな」

「大義のこと大大大好きだよ」

「美味しいピザ食べに行きたいねって言ってたの覚えてる?今度行くから来て。一緒に食べよ~」

涙を誘うもの、笑いを誘うもの、まるで明日会うかのような日常の会話、いろんなメッセージが次々と書き込まれていきました。今、その寄せ書きは忠義さんのお宅の仏壇の前に、額に入った状態で飾られています。八月の大義くんの写真展の時にもその寄せ書きは掲げられました。このように、木村さんはこの告別式を通して「ふと」閃くことが多々あったそうです。ロビーに飾った『思い出コーナー』の写真もそうでした。ロビーの一角に大義くんの幼少の頃、忠義さんが撮った写真がいくつか飾られました。また、通夜の日に市船で忠義さんと正義さんが先生方からいただいた横断幕も木村さんの手に渡り、ロビーの白い壁、式場の正面に掲げました。演奏のために集まった吹奏楽部の仲間たちは、人数の関係で告別式に出席することができません。しかし大義くんにとってご家族の次に大切な人たちのはず。そのお別れの時をなんとか作ってあげたいと、当日の朝、まだ弔問客が集まる前に市船生が集合してきた時、異例のことながらお棺の蓋を開いたのです。

「献花してさしあげてください」

色とりどりの花が集まった市船生に手渡されました。彼らは演奏の前に、一人一人花を手向け、大義くんに最後の別れをしました。その配慮に部長の河上さんは本当に感謝したと仰っていました。しかし木村さんがこうして次々と異例とも思えることを判断できたのは、高橋先生、河上さんをはじめ、市船生の熱意を感じ取っていただからこそでした。

式場を見学させていただいた後、会食室で木村さんと向き合い、少しお話をしていただきました。熱い珈琲を出してくださいながら木村さんは、この会食室で演奏前、市船生たちは待機していたんですよ、と教えてくださいます。どんな様子でしたかと問いますと「それはもう皆さん…ただ泣いておられましたね」としんみりと仰います。

木村さんが大義くんの葬儀を担当したのは本当にご縁だったと仰います。通常六人いる葬儀担当者の中で、たまたま木村さんがあたることになった、という偶然の流れでした。

実は大義くんが亡くなる数日前、忠義さんがゆいまき斎苑を訪ねてこられました。おそらく、今日亡くなってもおかしくないと担当医から言われていた一月初旬の日々の中で、忠義さんは孫のために式の相談をしたそうです。その際は木村さんではなく、別の担当者が相談に応じました。弔問客はおそらく五十名くらいだろうとの予想でした。

一月十二日、大義くんが亡くなりました。

その連絡を受けて、木村さんはすぐに葬儀の手配に取り掛かりましたが、実は一月は亡くなる方が最も多いとされている月。火葬場の予約が取れず、葬儀は一週間以上も先の二十一日と決定しました。そのことが、告別式での演奏を可能にした大事な要素となります。もし、すぐにお通夜、葬儀と進んでいたら、高橋先生は皆で演奏をするということを思いつかなかったといいます。告別式の日程を聞いた先生は「一週間あればできる」と判断し、河上さんへ連絡をしました。それが全ての発端なのです。

しかし、木村さんは一つの問題を抱えていました。一週間以上するとご遺体はどうしても傷んでしまいます。ご家族に斎苑の保冷暗室への安置を勧めました。しかしご家族は、傍を離れたくないからと、忠義さん宅での安置を願っていました。木村さんにもそのご家族のお気持ちは痛いほど理解できます。考えた末、ご自宅での安置とし、木村さんは毎日、十キロのドライアイスを忠義さん宅へ運び、大義くんの胴体にあてて顔色をチェックしました。

この時、木村さんは上司から、大義くんの葬儀の弔問客は五十名ではすまないだろうと言われていました。千葉県は吹奏楽部が盛んな地域です。吹奏楽部人口が非常に多い。生前の大義くんの活動の繋がりを考えても四~五百人は下らない、もしかしたら七~八百人は見積もっておいたほうがいいだろう、そんな予想でした。木村さんはその時まさかと思いましたが、果たして結果はその通りでした。お通夜の日から数えて弔問に訪れた人の数は七百名強。告別式で演奏に再度訪れた人数を考えると、のべ一千人が訪れたことになります。お通夜の日、お焼香の列は二階ではおさまらず、螺旋階段を経て一階のロビーまで続き、一時は入り口を出て外の通りへ、駅の近くまで列が伸びていたといいます。近隣の住人が「今日は誰か芸能人の葬儀なのか」と通りかかった忠義さんに問うと「俺の孫だ」と忠義さんは答えたそうです。いくら吹奏楽人口が多いからといって、七百名強というのは凄い数です。大義くんの生前の交流の広さを改めて知らされます。

木村さんは、ドライアイスで大義くんの身体を冷やしながら、何度も「頑張ってくれ」「頑張ってくれ」と唱えました。大勢の人々に訪れていただいた時に、大義くんのお顔が見る影もなくなってしまっていたら申し訳ない。生前通りとまではいかないまでも、少しでもきれいなお顔で皆さんに最後のお別れをしていただかなくては…その一念でした。

それと同時進行で、木村さんは式の準備に入りました。祭壇に飾るお花は、生花部の古山健太郎さんがデザインを担当したそうです。木村さんは古山さんに、大義くんが愛用していたトロンボーンのロナウドを祭壇に飾れないかと提案しました。そして、音楽がとても好きだった人だから、音符のデザインにできないかと。

「音符ですか…」

と古山さんは知恵を絞ってアイデアを出してくれました。葬儀で使える花は限られていますし、祭壇に音符を描くといってもどのように配置していいものか。前例のないオーダーに頭を悩ませたそうです。そして、夜通し考えてデザインを仕上げました。

青や紫の花々を絨毯のように敷き詰め、そこから浮き上がるように白い花を音符の形に配置します。ちょうど運動部応援のスタンダード、人文字で作られたかのようなデザインです。祭壇の真ん中には大義くんの遺影。高校一年生の時の演奏会終了後の一コマでした。左手にトロンボーン、右手はゆるいピースサイン。おなじみのヘラっとした笑顔。

「なんでこの写真にしたんだろ…トロンボーン持ってるからいいなと思ったのかな」

以前、なぜこの写真にしたのですかとの質問をした時に、桂子さんは懐かしそうに遺影を見ながら笑いました。この写真の撮影も忠義さんです。演奏会の帰り、ホールの前で「一枚撮るよ」と忠義さんは大義くんに声をかけました。「え~でも、今から集合だし…みんな先に行っちゃったから早くいかないと…」とグズグズ言う大義くんに忠義さんは「一枚だけ」とシャッターをきります。皆の手前、家族に写真を撮ってもらうなんてカッコ悪い、でもジイジの気持ちは無碍にしたくない…となんとなくピースサインをして笑ってみた、というなんとも中途半端な笑顔。しかしその「どっちつかず」な感じが、大義くんの人柄をよく表しているようにも見えます。最初に私が動画を見た時の第一印象で「きれいだな…」と思ったあの祭壇のデザインが、こうして出来上がりました。向かって右手にはロナウドが飾られました。少し離れたところから、持ち主の旅立ちをそっと見守っているようでした。

実は木村剛さんは、大義くんの担当になった時、入社して半年も経っていなかったそうです。それまでは大手の葬儀社に勤め、主に仏壇などのアフターフォローを担当していたそうです。葬儀の現場は新入りの時に現場に入って以来、十年ほどやっていなかったことになります。大手の組織ではすべてが分担されていて、一つの家族にまるごと寄り添うことがどうしても少なくなります。そのため、木村さんは次第にやりがいを失っていきました。葬儀の現場に行きたい、と思ったそうです。どうして現場がいいのですか、と問いますと木村さんは少しはにかんだような笑顔をなさいました。

「おかしな風に聞こえるかもしれませんが…僕、葬儀が好きなんですよ」

私は少し驚きました。それだけだと少し誤解を生じさせる言葉かもしれません。しかし続けて木村さんは仰います。

「この業界の人間はみんなそうだと思います。逆に言うと、そうでなければやっていない」

具体的にどんなところがお好きなんですかと、少し興味本位で伺いました。木村さんは、やはりご家族の気持ちが感じられるからと言います。

「お一人の葬儀を出すのでも、葬儀はお金がかかります。葬儀社に支払うお金も決して安くはありません。でも、葬儀を終えたご家族は本当に心から「ありがとう」と言ってくださるんです。そう言われた時、本当に嬉しくて」

それはきっと木村さんが誠心誠意取り組んでおられるからだと私は強く思いました。身内を亡くされたご家族の心境を思えば、なかなか心からの「ありがとう」とは出てこないものです。それは故人とご家族のために何ができるか、最大限に努力したからこその関係なのではないかと思います。そして、その木村さんの誠意が、大義くんの告別式でも惜しみなく発揮され、最終的に「暖かで爽やか」と高橋先生が表現する葬儀になったのではないでしょうか。人生は最初も大事ですが、何より終わりが肝心。終わり方に人生の集大成がすべて表されるとしたら…。

大義くんが「葬儀が天職である」と信じていらっしゃる木村さんという担当者と出会ったのも、一つの縁であり、大義くんの持っていた人徳ではないかなと思いました。

部長だったのユナさんは、大義くんの訃報を学校へ行く電車の中で受け取りました。電車の中だから泣いてはダメだと思っても涙はあふれ出て止まらなかったそうです。大義くんへのビデオレターを作成した後、ユナさんは、高橋先生が「女子は耐えられないから会いにいかないほうがいい」と言っていましたが、ユナさんはどうしても会いたくて、一月八日に会いに行ったそうです。告別式の後、ユナさんから高橋先生へ宛てたメッセージからその時のことが書かれた部分がありました。引用させていただきます。

 

***

わたしが行ったときは、薬の影響で眠くなっていて、たまに起きて、また寝て、という感じで。声は出なくて、目も右目が微かに開く程度でした。それでも、わたしが話しかけたり、写真を見せると、頷いてくれました。手をあげてくれました。
大義だ。変わらない、大義。
「大義、また来るからね」
その日最後に大義に言った言葉です。
大義、大きく指でグーを作っていました。
その4日後、先生から連絡がありました。
「大義が亡くなった」
文字を疑いました。
何度、何度読み返しても、同じでした。
涙が溢れて、止まらなかった。学校でただ一人、大義のことで頭がいっぱいになった。辛くて、悔しくて、悲しくて、どうしようもできない気持ちでいっぱいで、何も言えなかった。
でも、一番辛かったのは大義。
一年半もの間、病気と闘ってきた大義。いつも、「ありがとう」と言っていました。
こちらが感謝する側なのに。大義の姿に救われた人は何人もいます。
***

 

大義くんの訃報は、高橋先生からユナさんへ、ユナさんから赤ジャのメンバーへとすぐに知らされました。誰もがその連絡を受け入れることができなかったといいます。

 

Aさんは、仕事場でその知らせを受け取りました。昼休みに更衣室で携帯開くとそこに信じられない知らせが入ってきていたのです。最初に思ったことは「会えなかった」ということ。同時にそのまま大号泣してしまいました。会いに行こうと思っていた矢先でした。「間に合わなかった」という思いが去来し、覚悟はできていたつもりでしたが、全然信じられず、受け入れられませんでした。安宅さんの心には、いつまでも元気な大義くんのままで時間が止まっていたのです。

Aさんと同じく、Iさんも仕事の休憩中に受け取りました。思わず「あ~!」といってしまいました。ついに逝ってしまった。「もったいない」と思ったそうです。自分にはない音楽の才能を持っている人だったはずなのに…。生きていればたくさんの可能性があった人なのに、と。

Sさんは、市船で大義くんと仲の良かったMさんと同じ大学に進学していました。たまたまその時、同じ授業を受けていた時に訃報を受け取ります。とっさにMさんには見せないようにしてしまったといいます。授業後、二人は一緒に泣きました。どうとらえていいか分かりませんでした。逝っちゃったんだ…と信じられなかったと。ただ、その瞬間に、共に泣ける人が一緒にいてくれてよかったと思いました。

男部で共に過ごしたTさんは、どこかで期待があったといいます。治るだろうと。大義くんが病気で亡くなるというシナリオを自分の中に準備していなかった、と。あんなに明るくて軽いノリでいつもふざけていた相手だったからこそ、この若さで逝ってしまうとはどうしても思えませんでした。現実味のない中、これを現実として受け入れようとしている自分もいた、といいます。

「大義が昨夜亡くなった。」

Nさんが授業を終わって携帯を見てみると、画面に高橋先生からのラインメッセージ

が表示されていました。その瞬間、何かが胸の中にドーンときたそうです。そこまで悪いと知らなかった、いきなりすぎる、突然すぎる、繰り返しそう思いました。しかし思いながらもどこか「そうなんだ」と冷静に受け止めようとしている自分もいました。その日(十三日の夜)、Nさんは忠義さんの家に行ったそうです。何度も遊びに来ていたはずのお家は、ただならぬ空気で満ちていました。浅野家の親戚の方も多く集まっており、大義くんのご家族は皆さんその場にいて、泣いていらっしゃいました。Nさんはそのご家族の涙が何よりも辛かったといいます。

大義くんは、居間で静かに眠っていました。死に顔はとても安らかで、眠っている感じでした。「何寝てんすか」と言えば起きてくるような感じすらありました。しかし、Nさんは同時に強い違和感も感じました。そこには何もないと思いました。大義くんはそこにいない。身体だけがある。なんの温度も感じない。生きていない。空っぽだ。そう強く思ったといいます。

「大義は、Nくんが最初に来てくれて喜んでると思うよ。微笑んでるでしょ?」

母の桂子さんが声をかけてくれました。Nさんは頷きました。最後に会った十二月二十八日の定期演奏会の日、「よう」と昔と変わらず手をあげてくれたことを思い出しました。車椅子で動けず、目も耳も悪くなっていて、周囲の友人たちへの返答もゆっくりゆっくりと話していた。それがNさんを見つけると一瞬だけ、昔のままの兄貴顔をのぞかせました。Nさんはそれがとても嬉しかったといいます。

14日の0時40分。

ユナさんのもとに高橋先生から長文のLINEが届きました。大義くんと交流のあった、各代の部長に回してくれといいます。その文を読んで、ユナさんは深く心を打たれると共に「先生、本気!?」と思ったといいます。が、市船スピリットの高いユナさんは、すぐに各代の部長にそのメッセージを投げました。とにかく、やろう。大義のためにやれることは全部やろう、と。気持ちは高橋先生と同じでした。

その高橋先生からのメッセージを全文ご紹介します。

***

大義が死んでしまった。悔しかっただろう。怖かっただろう。苦しかっただろう。何よりもっともっと生きたかっただろう。
大義の気持ちは、私たちにはわからない。
でも、もし自分が大義の立場だったら、それは考えられる。
大義の告別式。皆で演奏してあげたい。
もし私だったら多くの人に集まってもらい、演奏してほしい。
大義は音楽が何よりも好きだった。
目立ちたがり屋で、自信過剰で、でも誰よりも優しくて、人を想える人だった。
きっと大義は、先が長くないことをわかっていたと思う。けれど、そんなこと一度も私に感じさせなかった。いつも私のことを気遣ってくれた。
最も辛かった1月4日頃、LINEが来た。
「おはようございます。寝た切りの全介助ですが、体調大きな問題はありません!」
というものだった。そんなはずない。癌の痛みは酷いもので、モルヒネ無しではどうすることもできない状態だったのにこういうLINEを私にくれる大義の心遣い。大義の人を想う気持ちが溢れている。
なぁ、みんな、大義の為に演奏してあげよう。楽器から離れているなど関係ない。合唱もやろうと思う。最後は大義が作曲した応援曲 市船ソウル で大義を見送ろう。
みんな、忙しいだろうが、集まってもらえないだろうか。だって大義は死んじまったんだよ。でも、大義の魂に音楽を聴いてもらおう。
来週の金曜日がお通夜。土曜日が告別式。
土曜日の告別式の時に演奏しようと思う。
楽器車は、皆で折半してお金を出す。
楽器がない人は、その日、市船の楽器を使ってくれ。
浅野大義は、私たちの前で確実に生きた。生きていた。皆、それぞれ大義との思い出があるはずだ。
忘れない。
練習は木曜日。
取り敢えず、19時に市船集合。車での来校は厳しい。楽器の運搬上どうしても必要なら、直接私に言ってください。
曲は、今、考えているし、その日に集まったメンバーを見て考える。
大義の為に出来る限り多くの人に集まってほしい。
が、くれぐれも空気の読めない不謹慎な行動は慎むこと。同窓会でも何でもない。心ある人が大義の為に集まる日だ。
木曜日に練習して、土曜日の告別式ぶっつけ本番で行う。何よりも心が大切だと思う。楽器から離れているとか、そんなことはどうでもいい。大義を思う気持ちがあるか。もし、自分が大義の立場なら。
命は平等ではないね。
あまりにも早過ぎる死だ。仕事もしたかっただろう。結婚して家族もつくりたかっただろう。この若さで全てを断ち切られた。
どうか、大義の為に集まってほしい。
19日  木曜日  19時  市船
ユナをまとめ役とするので、参加する方はユナに連絡してくれ。

仕事、バイト、学校、万難を排して来てほしい。
いずれ、あなたも私も確実に確実に死ぬのだから。

高橋健一

***

 

「もし自分が大義の立場なら」。

高橋先生が、市船で一貫して教えてきた「自分がどうするか」という教え。その大前提になるのは他人の立場になって物事を考えられるという思いやりです。その最たるものを、市船生たちはここで提示されたように思いました。しかし高橋先生の言葉に命令や強制はありません。「どうか集まってくれないか」と繰り返します。この文章を見せてくださったのはYさんです。読みながら号泣してしまいました。そして、取材を通して一番大義くんが羨ましくなった瞬間でした。自分が死んだ時に、こんなに熱い言葉で自分のために訴えかけてくれる人がいるだろうか、そしてそれに応えてくれる人がいるだろうかと。

その呼びかけに市船生たちがどう応えたか、それを次にまとめていきます。

 

※※※

 

ただいま、絶賛上映中「20歳のソウル」引き続き劇場でお待ちしております!

 

※中井由梨子が『20歳のソウル』を書くにあたり取材した記録です。当時の様子が鮮明に書かれています。取材ノートのため、『20歳のソウル』に登場する人物以外の実名は伏せてあります。

 

2022.06.15
最新情報

皆さん、こんにちは。
中井由梨子です。

全国公開が始まって三週間。
たくさんの方々に御覧いただき、本当に感謝しています。今週で上映終了となってしまう映画館もあるそうですが、まだまだ上映を続けてくださる会館もたくさんあります!
「もう終わっちゃうの?」「もったいない!」というお声をSNSで目にするたびに胸が熱くなります。ただ、私達は100年残る映画を作ったつもりです。一過性のものではなく、永く多くの方々の心で燃え続ける炎となれるように、これからも変わらずPRを続けます。
引き続きよろしくお願いいたします!


さて、今日は連載七回目。
当時、高橋健一先生が毎日のように書かれていた blog から、大義くんが亡くなった頃に書き綴られてた言葉を掲載させていただきます。この頃の先生のお言葉が、映画の脚本やクライマックスへの根幹となっているように思います。

※※※

翌日、私は前日の取材をノートにまとめていました。前日の先生との面会は、取材と言いながら、お会いしてお話をすることが精一杯で、録音もしていなければメモも取っていませんでした。記憶が鮮明なうちに、先生との会話、先生の表情や言葉に込められた思いをまとめて書いておかなければと文章に書き綴りました。
先生は「ブログを書いているから見てください」と仰っていました。私は一通り取材をまとめ終えると、先生のブログをインターネットで検索しました。ブログのタイトルは『顧問の勝手な言い分。―市立船橋高校吹奏楽部顧問、高橋健一の勝手気ままに書き綴る考察日記―』というもの。前日お会いした先生のお人柄と、この『勝手な言い分』というタイトルが妙にしっくりきました。

【2016 年 12 月 26 日】
『待っているぞ』
昨年の9月。白子にて私たちはマーチング強化合宿中。本校吹奏楽部卒業生二十歳の彼は、その合宿に遊びに来ていた。すこぶる元気。いつものように冗談を言い合っていた。その1週間後、止まることのない咳に異変を感じ病院へ。
胚細胞腫瘍と診断される。いわゆる癌である。
見つかった時点で、縦隔、肺、肝臓に転移していた。10月より抗ガン剤治療が始まる。酷い副作用に苦しみながらも腫瘍を小さくすることに成功し、年明けに腫瘍摘出手術をする。
無事摘出。
しかし、治ったと喜んだのも束の間。翌年、つまり今年の5月。腫瘍が脳に転移していたことが発覚。今度は脳の手術。頭を切ることとなる。手術後、確実に腫瘍を潰す為に再び抗ガン剤治療を開始。その副作用の苦しみは想像を絶するものだったと彼は言っていた。もう二度と味わいたくないと言っていた。
脳の腫瘍は完全に消えた。
と思ったその三ヶ月後の8月、消えたはずの脳の同じ場所に腫瘍が再発。二度目の手術となる。手術後、抗ガン剤は脳に届きにくいということで、今度は放射線治療をすることとなる。
2回目の脳の手術は、かなり危険な手術だったという。もうこれで治ったであろうと退院し、市船にも遊びに来てくれた。抗ガン剤の影響で髪の毛はなかったが、元気であった。
しかし今月、骨髄への転移、肺に再び転移していることがわかる。緊急を要するということで、骨髄に抗ガン剤を直接注射する。現在経過観察中である。年明けに肺の手術をする予定である。
私の教え子である。
この市船吹奏楽部を卒業した教え子である。音楽が大好きで、音楽大学の作曲家に進んだ。
彼の苦悩は、私にはわからない。私の前ではいつも明るく振る舞っている。常に前向きな姿勢を見せてくれる。しかし、人知れず恐怖と孤独と闘っているに違いない。その暗闇は私にはわからない。寄り添おうといつも思っているが、あまりに闇が深過ぎて、簡単に寄り添えるものではない。私は彼の弱音を聞いたことがない。一度もない。反対に私が勇気付けられる。いつもそうだ。
彼は癌と上手に付き合いながら、生きていきます。と言っていた。実際にそうしている。
私は祈ることしか出来ない。が、彼は癌と上手に付き合いながら、必ず社会復帰すると信じている。そして、人の感情を揺さぶる曲を作ると信じている。
待っているぞ。
私も負けぬくらい頑張る。

【2016 年 1 月 20 日】
『浅野大義』
1月12日の夜、浅野大義くんが亡くなった。
亡くなられた直後、会いに行ったが、それでもまだ信じられなかった。現実として考えられなかった。
今でも実感が湧かない。
(中略)
大義が旗を降る姿は鮮やかに私の目に焼きついている。
とにかく優しい。
困っている人を放っておけない。合同合宿で知り合った長野県の高校にまで応援へと駆けつけるような男だった。
大義を慕う人は多い。
癌になってからは周囲に心配をかけまいとしていた。特に昨年の12月入院した時、癌の痛みは想像を越えるものであったであろうに、それでも自分のことより人の心配をしていた。
(中略)
明日が、もう今日だ、今日がお通夜。明日土曜日が告別式。
大義が作曲した運動部応援曲「市船ソウル」は未来永劫野球場で、サッカー競技場で流れ続けるだろう。
人間は二度死ぬという。
一度目は死そのもの。二度目は人々から忘れ去られた時。
運動部応援曲「市船ソウル」は浅野大義そのもの。忘れずに語り継いでほしい。
浅野大義は死なない。
私たちの心に生き続ける。

【2017 年 1 月 22 日】
『暖かな葬儀』
1月21日。
浅野大義君の告別式。
式場の方の数々のご配慮。
最高の形で大義を送り出すことが出来ました。特に式場の木村さんには心より感謝しております。ありがとうございました。浅野大義という20歳の若者がどれだけ多くの人に愛されているかを噛み締めた1日でした。浅野大義が、これほどまで人々に愛される理由。それは、自分を後回しにして人を思いやって生きて来たから。

***

「浅野大義が、これほどまで人々に愛される理由。それは、自分を後回しにして人を思いやって生きて来たから」
私はしばらくの間、先生のこの文章を見つめていました。自分を後回しにして人を思いやることができた優しい青年。生きていた時間、彼が人に捧げた時間は人生最後のセレモニーの時に、皆から返ってきた。そんな考えが浮かびました。
私はもう一度、朝日新聞の記事を検索しました。告別式の動画をもう一度再生して見てみました。皆が奏でる『市船soul』は、最初に聞いた時よりも悲しい音に聞こえました。演奏者たちが泣いているから音も泣いているのだと思いました。その涙が、先生の仰るような浄化となり、悲しみが祈りへと変わっていったのでしょう。本来、葬儀とはそうあるべきなのだと改めて思いました。悲しみよりも強いのは祈り。私たち全員がいずれ必ず死ぬからこそ、送り出す者に必要なのは希望に向かうための願いなのだと。大義くんは、最後まで周囲に明るい光のようなものを届けていったのだなあと漠然と感じました。
この一月、高橋先生は折に触れて大義くんのことを書いていらっしゃいます。先生が大義くんの死の意味を、心と体でじんわりと受け止めていかれている様子が伺われます。

***

【2017 年 1 月 24 日】
『浅野大義は大忙し!!』
「忙」という漢字。
りっしんべんです。りっしんべんは「心」という意味です。
私は折にふれ、生徒へ「忙しい」の「忙」の字は「心を亡くす」と書く。と言って来ました。だから、みんな、忙しい時こそ心を大切にしようね、と。心を亡くすことは怖い。忙しさのせいにするのは、やめようね、と。
今回、大義が亡くなり、別な意味を思いました。
「亡くなった方は忙しい。」です。
きっと、これから沢山の方々が、何かある度に大義に話しかけると思います。
「大義、守ってね。」
「大義、助けて。」
「大義、いつもありがとう。」
願いを伝えたり、祈ったり、感謝をしたり、実に多くの人たちが日常の中で大義に話しかける。
それをいちいち聞く大義は大忙し!!
大義は、みんなの思いを聞きながら、みんなの中で生きていく。きっと誠意を持ち、丁寧に聞いてくれる。既に私は、もう大義、力を貸してくれと頼んでしまった!
「忙」という漢字は、
「亡くなられた方が皆の心のすぐ横に寄り添い、その気持ちに応えるから、忙しくなる。」
と別な意味を思いつきました。
ちなみに
「忘」という漢字。
心が下になり、亡くなられた方を思い出すことさえ消えてしまう。願いごともしなければ、祈ることもない。すっかり自分の心から消えてしまった状態。だから、忘れてしまう。
大義の場合、そんなことはありませんが。
大義は大忙しだと思います。そして、大義のことだから、一つ一つ誠実に応えてくれていると思います。こりゃ大変だ。本当に大義は大忙しだー!顔晴れ大義!!
亡くなった後も忙しくしていられるか。つまり、それは亡くなった後も必要とされているか、それとも亡くなった後はヒマになるか。つまり、それは必要とされていないか。
それは今生きているこの瞬間、瞬間をどう生きているかにつながっていると、改めて大義に教えてもらいました。
ありがとう。

***

亡くなった後も必要とされるかどうか、人間の価値はそこで決まると、私も思います。生きている間に持っていた物質的なものは何一つ残りません。その人が生きていた証は、物ではなくて、残された人の心の中にいつまでも忘れずに、自分が存在し続けることなのです。
そのことを、まさに先生も書いていらっしゃる記事があります。

【2017 年 1 月 28 日】
『自分の価値』
大義の告別式。
あの時、誰もが自分自身のことを考えたに違いない。自分が亡くなった時、どれだけの人たちが本当の涙を流してくれるのかと。
本当の涙 = 人の為に生きたか
と大義は教えてくれました。
とてもとても大切なことを教えてくれました。
人から愛されたいのなら、
人を愛するのだと。
人に求めるのではなく、与えるのだと。
教えてくれました。
死んだ時に自分の本当の価値がわかります。
自分の生き方が問われます。

 

※※※

 

 

ただいま、絶賛上映中「20 歳のソウル」引き続き劇場でお待ちしております!

 

※中井由梨子が『20 歳のソウル』を書くにあたり取材した記録。当時の様子が鮮明に書かれています。取材ノートのため『20 歳のソウル』に登場する人物以外の実名は伏せてあります。

2022.06.14
最新情報

皆さんこんにちは!

「20歳のソウル」でチーフ助監督を務めました、俳優の宮下涼太です。

 

僕は5月でプロダクションノートを卒業したのですが

今日は、先日まで北海道で行われていた『YOSAKOIソーラン祭り』についてお話ししたく、再び担当させて頂きました!

 

 

映画「20歳のソウル」の中でも描かれていますが

市船吹奏楽部は吹奏楽部という枠にとらわれず、

北海道で毎年行われるイベント『YOSAKOIソーラン祭り』に参加しています。

 

しかし、コロナの影響で開催することが出来ず

なんと3年ぶりの開催となりました。

是非現地で応援したく、僕は北海道まで行ってきました!

 

1年生だけでなく、2年生と3年生も初めての『YOSAKOIソーラン祭り』

先生も生徒の皆さんもすごく楽しそうな表情で臨まれていました!

 

 

YOSAKOIソーラン祭りではセットされたステージで踊るものと

大通りを踊りながら前進するものがあり、1日を通して何度も演舞するため体力勝負です!

僕が応援に行った11日は夕方に雨が降っていて肌寒く、大旗は水を吸ってすごい重さになっていたそうです!

それでも、皆さんすごく元気よく、楽しそうに目一杯演舞していて、

入場規制がかかるほど集まった観客の方々も大盛り上がりでした!

 

 

動画1(クリックして再生)

 

 

また、大義さんの代の『YOSAKOIソーラン祭り』の動画が、

以下のリンクからYouTubeでご覧いただくことが出来ます。

 

ずっと引き継がれている市船吹奏楽部の『YOSAKOIソーラン祭り』の演舞は、

多くの人の熱い想いと思い出が詰まった、大切な舞台であると強く感じました。

 

https://youtu.be/4uvTRx2ora8

 

 

また今回の『YOSAKOIソーラン祭り』には、

「20歳のソウル」の撮影で大変お世話になった、

CHIよREN北天魁の皆さんも参加していました!

 

 

そしてなんと、

3年ぶりの市船吹奏楽部のYOSAKOIの応援に、

旭川商業高校の吹奏楽部の皆さんが駆けつけてくださいました!!

 

 

映画「20歳のソウル」でも大切なシーンで登場する合唱曲の『夜明け』は

旭川商業高校吹奏楽部の卒業生が作った曲で、

旭川商業高校吹奏楽部が合唱しているのを聴いた高橋先生が

市船吹奏楽部にも取り入れたそうなんです!

 

コロナ禍になり、ここ数年は直接の対面が難しかった両校ですが

先日は、それぞれの担当楽器ごとに分かれて交流を深めたり、

両校で一緒に『夜明け』を合唱していました!

 

なかなか会うことが出来なくても、両校がお互いを想う気持ちとその絆に、

とても温かい気持ちになりました。

 

旭川商業高校吹奏楽部の皆さんは、

先日、部員の方々全員で「20歳のソウル」を鑑賞してくださっています。

心より、感謝申し上げます。

 

 

 

今回、北海道で市船吹奏楽部のヨサコイを観て

改めて市船吹奏楽部の絆の強さを感じました。

 

部員の皆さんだけでなく、卒業生、保護者会、親父会の方々など、

本当にたくさんの方々の想いが詰まったヨサコイ。

 

大通りでの演舞中、先導するトラックには、

去年、一昨年と『YOSAKOIソーラン祭り』に参加できなかった

当時の3年生達の想いも一緒にと

「友理たちの代」「咲月たちの代」のタオルが掲げられていました。

 

そんなたくさんの方々の想いに応えるように

笑顔で力のかぎり楽しみながら演舞する部員の皆さん。

そんな皆さんを観て、すごく胸が熱くなりました。

素敵なヨサコイを本当にありがとうございました。

 

 

今回、『YOSAKOIソーラン祭り』に伺って、

市船吹奏楽部関係者の皆様に大変お世話になりました。

「20歳のソウル」撮影後も温かく迎えてくださる皆様に、感謝の気持ちでいっぱいです。

 

 

これからも注目すべき市船吹奏楽部のイベントはたくさんあります!

是非、このプロダクションノートを読んでくださっている皆さんにも

心震わす市船吹奏楽部の演奏を聴いていただけたら嬉しいです!

 

そして、映画「20歳のソウル」も

引き続き、どうぞよろしくお願い致します!

 

本日もご覧頂き、誠にありがとうございました!

 

2022.06.13
最新情報

皆さん、こんにちは。

中井由梨子です。

全国公開から3週間。

たくさんの感動のお声に日々心を震わせながら過ごしています。

そして昨日は船橋凱旋!ということで、南船橋ららぽーと内TOHOシネマズにて舞台挨拶をさせていただきました!

神尾楓珠さん、秋山純監督。

このお二人とざっくばらんにお話させていただくのもあまりないことです。最初に神尾さんが市船でトロンボーンを練習した日のことなど、懐かしく思い返されました。

何より嬉しかったのは、赤ジャを着れたこと。スタッフみんなで市船ジャージを着て走り回った日々が夢のようです。

 

撮影の思い出が染み付いたジャージ、これからも大切にします。昨日は会場に大義くんのお母様、桂子さんもお越しくださり、凱旋を見守ってくださいました。また、妹の千鶴さんからも温かいメッセージをいただきました。

今回は、Twitterライブでも挨拶の様子を配信いただき、会場にお越しになれなかった多くの方にもご覧いただくことができました!ありがとうございました。

アーカイブ残っております。ぜひご覧ください。

秋山監督も仰っていましたが、じわじわとこの作品を広めていきたい。連日、満席に近い劇場があると耳にするたびに、ありがとうございますと頭を下げたい気持ちです。

これからも、全国の皆さまと大義くんの過ごした日々を体感したい。

引き続き応援をよろしくお願いします。

そしてこの土日は。

3年ぶりに北海道札幌にてヨサコイソーラン祭りが開催されました!!市船も3年ぶりの参加。

 

コロナの影響で参加ができなかった友理たちの代、咲月たちの代の悔しさも一緒に引き連れて、青空の下で思いっきり舞ってきてくれたことと思います。

そしてこの二日間、なんと我らがみやしーが北海道まで応援に行ってました!

明日のプロダクションノートは、みやしーの「おかえりソウル!」ということで、ヨサコイソーラン祭りのレポートを届けていただきたいと思います。どうぞお楽しみに!

2022.06.09
最新情報

皆さん、こんにちは。

中井由梨子です。

 

今日は船橋の書店様を巡り、サイン本を作らせていただきました!

 

Twitterの発信等を御覧になり、お店に来てくださったり、声をかけてくださった皆様、本当にありがとうございました!まだまだ、多くの方にこの本が届きますように、そして映画が少しでも長く広く上映されますように、このプロダクションノートも続けます!

 

さて、今日は連載六回目。

市船生が最も苦しい思い出とするミーティングについてです。

台詞にもありましたが「音楽は人間関係だ」という高橋先生の言葉は、どの代の吹部生にも染みついているかと思います。そしてその関係を構築するのは話し合うことでしかできない、と先生は教えます。

 

※※※

 

「大義はミーティングではほとんど発言しませんでした」

Aさんはじめ、同期の子はみんな口を揃えて言います。いつも中立でニコニコしていて、いったい何を考えてるのか分からない、でもとにかく優しい。そんな存在だったそうです。

三年間のミーティングを通して、吹部の部員たちは互いに思っていることを表現し、他人を認め、問題点を話し合いによって解決していく忍耐力が備わります。最初の訪問でお会いしたIさんが「現役時代には吊り上がっていた」目が現在のように柔和になったのは、その力がついたからなのかもしれません。Iさんの部活ノートからの言葉です。

 

***

「『音楽は人間関係』。先生の言われたことの意味はこういうことだったんだと分かりました。(中略)なんでもお互いを思って厳しいことを言える。曲はそれからだと思います。誰か一人だけが好きに譜面をいじったり吹き方を変えても皆が同じことをやろうとしないと駄目だと思います。                       (Iさん)」

***

表面的に仲良くして、互いの深いところまでは関わらず、なんとなく年月を過ごし、卒業したら別れてそれっきり。数多くの高校でそんな人間関係が作られては消えていきます。腹を割らない関係は、その時限りの見せかけの友情です。その経験を書き記した『部活ノート』を引用させていただきます。

***

「私はみんなとの関係を壊したくなくて、怖くて言いたいことが言えませんでした。ビクビクしながら部活をしていても信頼なんてできないのに。          (Sさん)」

 

「同じパートの1年生に自分の嫌なところを言ってもらいました。その子はずっと我慢していて嫌な思いをさせていた自分が情けなくなりました。お互いが我慢し合って過ごすのではなく、すっきりした関係でいたい、そう思いました。       (Iさん)」

 

「私、今まで自分に甘かったです。すごく日常が変わりました。(中略)言い訳をしないということは自分から逃げないということ。すごく厳しいです。でもこれをいつも続かないのが今までの私です。同じ失敗をしたくない。            (Hさん)」

 

「どんなにミーティングをしても、その時限りの意志。流されてしまうのも、自分に負け、自分に甘え、自分の意志を簡単に曲げているから。思っているよりも自分は「自分」を知らない。もっと自分と向き合わないといけないと簡単に口で言っても、実際、自分の何も見られていない。自分を知るのをどこかで恐れている自分がいるのかもしれません。だから変われない。そんなことで、ただ「変わる」と言っても、それは自分の本心ではない。人に賛同しているだけ。結局、逃げっぱなしの自分。(Tさん)」

 

「前回のミーティングで出た言葉。多かったのは「信頼」という言葉。「信頼をつくろう」という意見が多かったです。「信頼をつくる為にはどうしたらいいか」など。でも、「信頼」って口に出して「作ろう、作ろう」と言えば言うほど遠くに行ってしまうというか、「信頼」について話し合ってもできるものではないと思います。これから先、YOSAやコンクールを乗り越えた先に出来上がっていくものであり、焦る必要ないと思います。                        (Iさん)」

 

「人の信頼を簡単に裏切る自分が怖い。私、本当に部活のことどう思っているのでしょうか。私いつからこんな奴になったのでしょうか。いつから人の信頼を裏切る人になった?いつからこんなに自分に甘くなった?いつからひとりぼっちが好きになった?いつのまにか構成されていた私。気付かなかったんです。自分がこんなになっていたことが。これ程情けないことはありません。(中略)こんなに心地の良い場所は他のどこを探しても見つかる気がしません。こんなに信頼されたいって思った人たちはいないからです。もう前の私はいらないです。本当はひとりぼっちなんか好きじゃないです。(中略)またいつボロを出すか分かりません。その時は容赦なく叱ってほしいです。私の心が折れるまで叱って欲しいです。そして、私が前の自分を壊して、新しい私が構成された時、信頼が欲しいです。                            (Yさん)」

***

『部活ノート』に書かれたミーティングの軌跡を眺めていると、みんな学年問わず、何度も何度も「信頼」という言葉をあげています。信頼とはなんだ、と十代の若者たちが真剣に考え、討論し、行動している。そのことが深く印象に残りました。もしも市船に、この『部活ノート』とミーティングがなければ、大義くんがこの世を去った時に全員が駆けつけることがあっただろうかと私は思いました。百六十四人が起こした奇跡は、高校時代の分厚い日常から積み上げられたものだったと思えるのです。そして我が身を振り返ります。それほどまで真剣に他人と自分に向き合ったことはあっただろうかと。

 

彼らがこの三年間を経て、社会に出た時にここで培った人間力は、必ず周囲の関係をより良くし、彼らの活動の助けになっているはずです。大義くんの取材を進めながら出会う市船吹部の卒業生たちの謙虚さや丁寧さ、思いやりを目の当たりにするにつけ、私はそう感じています。

話を二度目の訪問時に戻しましょう。ちゃぶ台の前で『部活ノート』を夢中で読んでいた私に、音楽室へ向かおうとした高橋先生が声をかけてくださいました。

「合奏、聴きます?」

 

先生がふっと腕をふると吹劇『ひこうき雲~生きる~』の序曲が流れ始めました。静かに優しく光りが射すように始まる序曲。次々に楽器が加わり、ブワーっと大きな波のような音が鳴り響きます。切なく儚く甘い「ひこうき雲」のメロディ。私の目の前にはフルートパートで、ダイレクトに音が体中に染み渡ってきます。先生の指揮を見つめる部員一人一人の瞳は真剣そのものです。いい音を出したい、良い演奏にしたい、最高の本番にしたい。全員が一つの目標に向かってベクトルを合わせているのが手に取るように感じられます。

入部してまだ間もない一年生にとって、この深いテーマの吹劇は、かなり高いハードルに違いありません。しかし上級生も下級生も一人一人が物語のパーツとなってよく動いていました。高橋先生は、リハーサルを見ながら隣にいたOBの女性にいろいろと指示を伝えています。

二回の通し稽古でリハーサルは終わりました。その日の練習は終了です。生徒たちは楽器や衣装を片付け、先生に挨拶や連絡をして、次々と帰宅していきました。

 

一息ついて、先生は「大義のことで聞きたいことがあれば何でも聞いてください」と仰ってくださいました。私は、大義くんの物語を舞台作品にできないかと考えています、とお話しました。すると先生は興味深げに頷かれ、仰いました。

「中井さんは大義のことをとても大事に考えてくださっている」

その言葉を聞いて、とても嬉しく思いました。と同時に、大義くんにもっと近づきたいと思っている自分自身に驚いてもいました。大義くんのことを想像したり、話を聞くだけで心が暖かくなる気がします。私は一度もお会いしたことがないのに、どうしてこんなに親しみが湧くのか不思議です。大義くんの話になると、高橋先生が本当に楽しそうに思い出を話されるせいかもしれません。

 

「大義は神様になったと思うんですよ」

帰り支度をしながら先生は仰いました。音楽準備室の鍵を閉め、暗い廊下を歩きながら先生と私は大義くんの話をし続けていました。神様になった、と仰る先生に私は大きく頷きました。私をここへ連れてきてくれたのは、大義くんの意志なのかもしれません。人生の折り返し地点に差し掛かかった私に、ふいに表れた二十歳の青年の死は、生きる上で本当に大切なものは何なのか、微笑みながら問いかけてくれているようでした。

 

※※※

 

ただいま、大ヒット上映中「20歳のソウル」引き続き劇場でお待ちしております!

 

※中井由梨子が『20歳のソウル』を書くにあたり取材した記録。当時の様子が鮮明に書かれています。取材ノートのため、『20歳のソウル』に登場する人物以外の実名は伏せてあります。

 

2022.06.08
最新情報

皆さん、こんにちは。
中井由梨子です。

一昨日、初めて公式 Twitter より LIVE をさせていただきました。
秋山監督、助監督の宮下涼太、そして特別ゲストにユースケ役の小島樹さんをお迎えして、
なんと2時間30分のロングトーク。お付き合いいただきありがとうございました!

普段の舞台挨拶では語り切れない映画の裏側をたっぷりとお届けできたのではないかと思
います。アーカイブ残っておりますので、未だ御覧になっていない方はぜひ!

公式TwitterLIVE「公開記念スペシャルトークライブ」

よろしくお願いします!

LIVE中にお話しした「斗真の物語」をこのプロダクションノートで少しでも綴っていけたらと思いますので、ぜひ楽しみにしていてくださいね!

 

さて、本日8日ですが、中井由梨子が船橋の書店巡りをさせていただくことになりました!

14 時頃 くまざわ書店ららぽーと店(南船橋駅)

15 時頃 くまざわ書店シャポー船橋店(船橋駅)

15 時 45 分頃 旭屋書店船橋店(船橋駅)

16 時半頃 未来屋書店船橋店(新船橋駅)

17 時頃 ときわ書房本店

それぞれの書店様にてサイン本を作成させていただきます!

お近くにお越しの際は、よろしければぜひお立ち寄りください。見つけたらお声がけいただければ嬉しいです!船橋の皆様、どうぞよろしくお願いします!

 

 

ただいま、大ヒット上映中「20 歳のソウル」引き続き劇場でお待ちしております!

2022.06.06
最新情報

皆さん、こんにちは。

中井由梨子です。

 

先週末。本当に多くの方が劇場に足を運んでくださいました!

満員でチケットが買えない、入れない、といった劇場さんも何か所かあったと伺っています。せっかくこの映画のためにお時間を使ってくださった方には、本当に申し訳ないです。この状況を受けて、上映回数が徐々に増えている劇場もあるようです。皆様、ぜひご来場ください!本当に、心からお待ちしています。

#20歳のソウル の発信は、関係者一同、可能な限り追いかけさせていただきます!秋山監督自ら、SNSのご感想やコメントにお答えしております。「そこまでするの?」と驚かれた方もいらっしゃるでしょうが、私達にとっては「そこまでする」映画です。御覧いただければお分かりになると思います。

よろしくお願いします!

 

 

さて、今日は連載五回目。

市船の吹部の根幹にある『吹部ノート』についてです。映画の中で健一(佐藤浩市さんが演じている)と生徒たちが対話する台詞は、この部活ノートを見せていただいたことから導かれたものが多いのです。

 

※※※

 

連休明けの五月十日、私はもう一度市船を訪れました。

その日は、朝から雨が降っていました。学校に到着したのは午後五時頃でしたが、雨はまだ降り続けていました。工事中のシンフォニーフォールを横目に見ながら裏門を入り、中庭へ抜けていきます。校舎の中の階段を通って四階へ上がれば良かったのですが、私はこの中庭からの出入りが少し気に入ってしまい、その日も中庭の階段へ向かいました。傘をさしながら急ぎ足で中庭を突っ切ろうとしたその時です。ステン!と自分でも予期しないタイミングで私は転んでいました。雨で中庭のタイルが滑りやすくなっていたのです。思いっきり水たまりに尻餅をつき、スプリングコートはベッシャリと濡れました。中に履いていたズボンにも水が染みこんだ様子です。慌てて立ち上がりましたが、どうしよう…と一瞬立ち尽くしてしまいました。しかし引き返すことはできないし、と私は階段を登りました。

ようやく音楽準備室に着きましたが、「先生、こんにちは」と挨拶をすると同時に私は畳に座れないことに気づきました。前回と同じく、ちゃぶ台を前にして畳に座っていた先生は「どうも」と私を見上げてらっしゃいますが、入り口に立ったまま動けませんでした。

「すみません、先生…さっき転んで…!」

と事情を説明しながら、さすがに情けなさがこみ上げてきます。先生は「え?」と驚いたような顔をなさいましたが、すぐに大笑いされました。「やっちゃいましたか!」と。

 

 

 

ズボンも濡れてしまった私にジャージを貸してくださったのは、講師の吉野綾先生でした。吉野先生も市船吹奏楽部の卒業生だそうです。吉野先生からジャージをお借りしました(後に聞いたら天野先生の私物でした)。高橋先生は「私はトイレに行ってますから」と席を立ってくださり、私は吉野先生に促されて慌ててそれを履き変え、畳の上に上がりました。吉野先生がストーブをつけてくださり、濡れたズボンとコートをストーブの前で乾かしました。先生方のお気遣いが身に染みる思いでした。

「あの中庭よく滑るんですよ。私も前に転びました、ステーン!って」

戻ってこられた高橋先生は相変わらずの大きな声で楽しそうにそう仰いました。訪問二回目で水たまりに転んで衣服を乾かしていただくとは…と心底情けなかったのですが、高橋先生も吉野先生も笑って出迎えてくださり、なんだか温かさを感じました。

 

しばらくすると先生はちゃぶ台の上に、ドサッと何十冊ものノートを重ねて置きました。

「読んでみてください」

と仰います。私は表紙に手書きで『部活ノート』と書かれた一冊を手に取りました。市船の部員たちは、三年間、この『部活ノート』と共に過ごします。週に一回の提出が決められていて、内容は何を書いてもいいそうです。本当に何を書いても良いのですが、生徒たちは自然にその時の自分の考えや気持ち、状態を書き綴るそうです。練習がうまくいっていない、人間関係で問題がある、嫌なことがあった、集中できない、自己嫌悪、恋愛問題、家庭問題。思春期の高校生たちは実に多くの悩みを日々抱えて過ごしています。部活動も集団生活ですから、必ず人間関係のストレスは生まれてきます。高橋先生は、その摩擦や歪を決してそのままにして放置してはいけないと仰います。そこにこそ、彼らの本質があるからです。その問題を表に出し、解決に向かって努力することで人間は成長することができる、と先生は仰います。

私は手に取った一冊を開いて見ました。二年生の女子生徒のノートでした。練習について、なかなかうまくいかないことが書かれていましたが、その中の一言が心に残りました。

「日常は分厚い」

そう書かれてあります。短いけど、深い言葉だなと思いました。読み進めると、その言葉は高橋先生の口癖なのだと分かりました。楽器の練習は、一日一日の積み重ねが大事です。今日一日をサボるのか、精一杯練習するのか、それによって結果は大きく変わってきます。本番の一日が分厚いのではなく、本番までの日常こそが分厚いのです。

私はこの言葉で、自分の日常を思い出しました。

果たして、私は分厚い日常を過ごせているだろうか。残念ながら答えは否です。市船の部員たちに比べて、私の日常はなんて薄っぺらいんだろうと思いました。楽をしたい気持ちが誘惑となって日常を襲い、それに負けてしまう自分。「まあ、いいか」で済ませていることがなんと多いことか。それによって達成できなかった事がいくつあるんだろう…そんな深い反省をしてしまいました。

 

「大義の部活ノートが、一度だけプリントで取り上げられたことがありました」

と見せてくださったプリントに、確かに大義くんの言葉が書かれていました。

それは、高橋先生が毎年関わっておられ、市船吹部も出演している船橋市の音楽イベント「千人の音楽祭」を担当する後継者がいないと漏らした時に、大義くんが部活ノートに書いて先生に渡した言葉でした。

 

***

「先生、本気で考えていることがあります。もし、千人の音楽祭が第20回で終わってしまった場合、第21回は僕が開催します。人間は揃っています。少し間があくと思いますが第21回は必ず開催されます。本気です。なので待っていて下さい。どれだけ大変な事かは今回の千人でわかりました。生意気かもしれませんが、必ず復活させます。目標は30回。すでに案もあります。無理だろうと思うかも知れませんが、やり遂げます。その為には僕が成長しないといけないので時間を下さい。人と少し違う自分の頭を上手く使って面白い音楽祭にします。本気です。              (1年 浅野大義)」

***

 

一年生らしい、溌溂とした、怖いもの知らずな言葉です。何より高橋先生が大好きで、先

生のために頑張りたい、認めてほしいという気持ちが全面に出ているような気がします。

もし私が先生の立場なら、感動して大義くんに「ありがとう!」と言っていたかもしれま

せん。大義くんは何と良い子なんだろうと感心していただけかもしれません。

しかし、高橋先生は違いました。この大義くんの言葉に対して、プリントの最後で先生が

応えた返事は以下のような内容でした。

 

***

大義の気持ちは嬉しいが、W(大義くんの先輩の三年生)は引退直前まで大義のいい加減

さについて悩んでいた。そんないい加減な自分のこともまともにできない人が5000人

の人を相手に千人の音楽祭を運営できるものなのか…。人間、口ではなんでも言えるんだよ

な。あー来年が最後の千人か。信じられない。

 

***

 

私は少し笑ってしまいました。大義くんはさぞ、苦い思いをしたことでしょう。確かに大義くんの言葉は「口ではなんでも言える」レベルだからです。まだ一年生で(楽器も下手っぴだったころ)、何一つやり遂げていない人間が、大きな口を叩くものではないと、先生は戒めたのでしょう。そうやって突っぱねる姿勢に、先生の思慮を感じました。生徒のことを本気で考えているから、先生からも本気の言葉が出てくるのだと思いました。愛情を感じました。

 

「かっこつけ」だった大義くんも、こうして日々先生に叩かれて成長していったのでしょう。この六年後、二〇一七年二月十二日に開催された第二十四回「千人の音楽祭」で、グランドフィナーレの編曲を手掛けたのは大義くんでした。

高橋先生は、この一年生の時の部活ノートでのやりとりを覚えていたのか、二〇一七年の音楽祭は大義くんに頼みたいと思ったそうです。心のどこかで「今でなければ叶わない」と思っていたとも仰いました。大義くんは入退院を繰り返す日々の中で見事に編曲をやり遂げ、素晴らしいグランドフィナーレを作り上げました。

第二十四回千人の音楽祭、本番の日。大義くんは空の上で、あの日の部活ノートを思い出しながら、その演奏を聴いていたのでしょうか。

 

※※※

 

ただいま、大ヒット上映中「20歳のソウル」引き続き劇場でお待ちしております!

 

※中井由梨子が『20歳のソウル』を書くにあたり取材した記録。当時の様子が鮮明に書かれています。取材ノートのため、『20歳のソウル』に登場する人物以外の実名は伏せてあります。

 

2022.06.05
最新情報

皆さん、こんにちは。

中井由梨子です。

 

昨日の土曜日。本当に多くの方が劇場に足を運んでくださり、多くの会館で満員となりお入りになれない方も数多くいらっしゃったとお聞きしています。皆様、本当にありがとうございます!

 

また、昨日はUSシネマ千葉ニュータウンにて、17時10分〜の映画「20歳のソウル」上映前に秋山監督のトークショーが行われました。

急遽、客席にいた宮下涼太も加わり「20歳のソウル」を観劇に来た方々からの質問コーナーにお答えしました。映画「20歳のソウル」のお話や、俳優陣の撮影当時のエピソードなど、なかなか普段は話さないようなお話もさせて頂きました。

たくさんの方々にご来場頂き、誠にありがとうございました。

 

 

この映画はぜひ劇場で御覧いただきたい。

大義くんが振る旗を、大空を大画面で見ていただきたい。

市船サウンド溢れる音楽を、5.1サラウンドで体感していただきたい。

少しでも多くの皆様に御覧いただけますように、どうぞ引き続き、お声をお聞かせください!

#20歳のソウル の発信は、関係者一同、可能な限り追いかけさせていただきます!

 

さて、今日は連載四回目。

一回目の、溢れんばかりの取材を終えて、私はノートを書いていました。書きながら高橋先生の言葉を思い出し、気づいたことがたくさんありました。また、当時先生はblogを書いていらっしゃったので、その中の言葉からも多くを受け取ることができました。

先生のblogを引用させていただきながら、ご紹介します。

 

※※※

 

「浅野大義が、これほどまで人々に愛される理由。それは、自分を後回しにして人を思いやって生きて来たから」

私はしばらくの間、先生のこの文章を見つめていました。自分を後回しにして人を思いやることができた優しい青年。生きていた時間、彼が人に捧げた時間は人生最後のセレモニーの時に、皆から返ってきた。そんな考えが浮かびました。

私はもう一度、朝日新聞の記事を検索しました。告別式の動画をもう一度再生して見てみました。皆が奏でる『市船soul』は、最初に聞いた時よりも悲しい音に聞こえました。演奏者たちが泣いているから音も泣いているのだと思いました。その涙が、先生の仰るような浄化となり、悲しみが祈りへと変わっていったのでしょう。本来、葬儀とはそうあるべきなのだと改めて思いました。

 

悲しみよりも強いのは祈り。私たち全員がいずれ必ず死ぬからこそ、送り出す者に必要なのは希望に向かうための願いなのだと。大義くんは、最後まで周囲に明るい光のようなものを届けていったのだなあと漠然と感じました。

この一月、高橋先生は折に触れて大義くんのことを書いていらっしゃいます。先生が大義くんの死の意味を、心と体でじんわりと受け止めていかれている様子が伺われます。

 

***

二〇一七年一月二十四日

『浅野大義は大忙し!!』

「忙」という漢字。

りっしんべんです。りっしんべんは「心」という意味です。
私は折にふれ、生徒へ「忙しい」の「忙」の字は「心を亡くす」と書く。と言って来まし  た。だから、みんな、忙しい時こそ心を大切にしようね、と。心を亡くすことは怖い。忙しさのせいにするのは、やめようね、と。
今回、大義が亡くなり、別な意味を思いました。
「亡くなった方は忙しい。」です。
きっと、これから沢山の方々が、何かある度に大義に話しかけると思います。
「大義、守ってね。」
「大義、助けて。」
「大義、いつもありがとう。」
願いを伝えたり、祈ったり、感謝をしたり、実に多くの人たちが日常の中で大義に話しかける。
それをいちいち聞く大義は大忙し!!

大義は、みんなの思いを聞きながら、みんなの中で生きていく。きっと誠意を持ち、丁寧に聞いてくれる。既に私は、もう大義、力を貸してくれと頼んでしまった!
「忙」という漢字は、
「亡くなられた方が皆の心のすぐ横に寄り添い、その気持ちに応えるから、忙しくなる。」と別な意味を思いつきました。

ちなみに「忘」という漢字。
心が下になり、亡くなられた方を思い出すことさえ消えてしまう。願いごともしなければ、祈ることもない。すっかり自分の心から消えてしまった状態。だから、忘れてしまう。
大義の場合、そんなことはありませんが。
大義は大忙しだと思います。そして、大義のことだから、一つ一つ誠実に応えてくれていると思います。こりゃ大変だ。本当に大義は大忙しだー!顔晴れ大義!!
亡くなった後も忙しくしていられるか。つまり、それは亡くなった後も必要とされているか、それとも亡くなった後はヒマになるか。つまり、それは必要とされていないか。

それは今生きているこの瞬間、瞬間をどう生きているかにつながっていると、改めて大義に教えてもらいました。
ありがとう。

 

***

 

大義くんがいるであろう空に向かって、高橋先生が手を合わせて「大義、頼む!」と言う様子を私は想像してみました。大義くんは空から「分かってますよ、先生」と言わんばかりに笑って見守っている。そんな光景が頭に浮かびました。

亡くなった後も必要とされるかどうか、人間の価値はそこで決まると、私も思います。生きている間に持っていた物質的なものは何一つ残りません。その人が生きていた証は、物ではなくて、残された人の心の中にいつまでも忘れずに、自分が存在し続けることなのです。

そのことを、まさに先生も書いていらっしゃる記事があります。

 

***

二〇一七年一月二十八日

『自分の価値』
大義の告別式。
あの時、誰もが自分自身のことを考えたに違いない。
自分が亡くなった時、どれだけの人たちが本当の涙を流してくれるのかと。
本当の涙 = 人の為に生きたか
と大義は教えてくれました。
とてもとても大切なことを教えてくれました。

人から愛されたいのなら、
人を愛するのだと。
人に求めるのではなく、与えるのだと。
教えてくれました。
死んだ時に自分の本当の価値がわかります。
自分の生き方が問われます。

***

 

先生の文章を読んでいると、どの記事を書かれている時も先生は、誰かに訴えているというよりも自分自身と対話してらっしゃるように思います。敵も味方も自分の中にいて、その自分と常に対話している。生き方を確認しているような気がしました。そして、それはいつまでも答えは出ない。「これでいい」と言えるところまでは到達していない。だから、日々問い続けている…そんな印象を受けました。

 

 

 

※※※

 

ただいま、大ヒット上映中「20歳のソウル」引き続き劇場でお待ちしております!

 

※中井由梨子が『20歳のソウル』を書くにあたり取材した記録。当時の様子が鮮明に書かれています。取材ノートのため、『20歳のソウル』に登場する人物以外の実名は伏せてあります。

 

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