『20歳のソウル』Production Notes

2022.06.18
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「誰も知らない取材ノート ~市船の象徴・斗真に出会うまで~」第八回

皆さん、こんにちは。

中井由梨子です。

 

今月23日で上映が終わってしまった劇場が数多くあり、とても寂しい限りなのですが、皆様のお声でまだまだ上映を続けて下さる劇場がまだあるということをお聞きしています。また、「セカンドラン」という言葉があり、もう一度この映画を皆さんのもとにお届けできるように、まだまだ頑張りたいと思っています。どうぞよろしくお願いします!!

 

ここから数日に分けて、2017年の1月、大義くんの告別式当時の様子を細かく記したノートを掲載していきます。原作『20歳のソウル』に書かれている内容よりもかなり詳しく書かれたノートなので、伝えたかった多くのことが伝わる気がしています。取材したゆいまき斎苑の担当者、木村さんは大義くんのご葬儀を通じて、自分の人生観も変わったといいます。

 

※※※

大義くんの葬儀が行われたゆいまき斎苑は、新京成線三咲駅から徒歩二分ほどのところにあるこじんまりとしたアットホームな葬儀場です。大義くんのご実家、二和向台の隣駅。

朝早くから私のアポイントメントに対応して待っていてくださったのは、大義くんの葬儀をご担当なさった木村剛さん(古谷式典株式会社)でした。

「ようこそいらっしゃいました」

と深々と頭を下げられ、私も恐縮してしまいます。整備された綺麗なエントランスからエレベーターで二階の葬儀会場へと向かいます。この会場には式場は一つしかなく、したがって一回に一家族の葬儀しか行えません。その環境だったからこそ、吹奏楽部の演奏ができたのは間違いありません。

エレベーターを降りるとすぐ右手に広がっているのが式場です。お伺いすると三十七坪という広さで、足を踏み入れてみると想像以上に狭いのです。この小さな式場に百六十人が楽器を持ってどうやって入ったんだろうと素朴に疑問になります。

「告別式が終わってから十分後には演奏がスタートしました」

たった十分ですか、と私は何度も聞きました。その日、担当の木村さん含め十名のスタッフが総出で椅子移動などを素早く完了させ、楽器を持ち込み、速やかに演奏が始まったというのです。その統率力は素晴らしかったと木村さんは話してくださいました。

会場の入り口には、イーゼルにかけられた大きな似顔絵がありました。これはゆいまき斎苑が独自に行っているサービスで、故人の遺影をコンピュータを使って似顔絵風に作成し、会場入り口に置いて故人を偲んでいただいているそうです。通常はそれだけなのですが、その日、木村さんはふと思いついて、その似顔絵の額縁のアクリル板を外し、近くにペンを置いてみました。すると自然な流れで、誰かがそのペンで大義くんの似顔絵の近くにメッセージを書き始めたのです。やがてメッセージの寄せ書きは長蛇の列となりました。

「バイバイ大義ちゃん」

「また会おうな」

「大義のこと大大大好きだよ」

「美味しいピザ食べに行きたいねって言ってたの覚えてる?今度行くから来て。一緒に食べよ~」

涙を誘うもの、笑いを誘うもの、まるで明日会うかのような日常の会話、いろんなメッセージが次々と書き込まれていきました。今、その寄せ書きは忠義さんのお宅の仏壇の前に、額に入った状態で飾られています。八月の大義くんの写真展の時にもその寄せ書きは掲げられました。このように、木村さんはこの告別式を通して「ふと」閃くことが多々あったそうです。ロビーに飾った『思い出コーナー』の写真もそうでした。ロビーの一角に大義くんの幼少の頃、忠義さんが撮った写真がいくつか飾られました。また、通夜の日に市船で忠義さんと正義さんが先生方からいただいた横断幕も木村さんの手に渡り、ロビーの白い壁、式場の正面に掲げました。演奏のために集まった吹奏楽部の仲間たちは、人数の関係で告別式に出席することができません。しかし大義くんにとってご家族の次に大切な人たちのはず。そのお別れの時をなんとか作ってあげたいと、当日の朝、まだ弔問客が集まる前に市船生が集合してきた時、異例のことながらお棺の蓋を開いたのです。

「献花してさしあげてください」

色とりどりの花が集まった市船生に手渡されました。彼らは演奏の前に、一人一人花を手向け、大義くんに最後の別れをしました。その配慮に部長の河上さんは本当に感謝したと仰っていました。しかし木村さんがこうして次々と異例とも思えることを判断できたのは、高橋先生、河上さんをはじめ、市船生の熱意を感じ取っていただからこそでした。

式場を見学させていただいた後、会食室で木村さんと向き合い、少しお話をしていただきました。熱い珈琲を出してくださいながら木村さんは、この会食室で演奏前、市船生たちは待機していたんですよ、と教えてくださいます。どんな様子でしたかと問いますと「それはもう皆さん…ただ泣いておられましたね」としんみりと仰います。

木村さんが大義くんの葬儀を担当したのは本当にご縁だったと仰います。通常六人いる葬儀担当者の中で、たまたま木村さんがあたることになった、という偶然の流れでした。

実は大義くんが亡くなる数日前、忠義さんがゆいまき斎苑を訪ねてこられました。おそらく、今日亡くなってもおかしくないと担当医から言われていた一月初旬の日々の中で、忠義さんは孫のために式の相談をしたそうです。その際は木村さんではなく、別の担当者が相談に応じました。弔問客はおそらく五十名くらいだろうとの予想でした。

一月十二日、大義くんが亡くなりました。

その連絡を受けて、木村さんはすぐに葬儀の手配に取り掛かりましたが、実は一月は亡くなる方が最も多いとされている月。火葬場の予約が取れず、葬儀は一週間以上も先の二十一日と決定しました。そのことが、告別式での演奏を可能にした大事な要素となります。もし、すぐにお通夜、葬儀と進んでいたら、高橋先生は皆で演奏をするということを思いつかなかったといいます。告別式の日程を聞いた先生は「一週間あればできる」と判断し、河上さんへ連絡をしました。それが全ての発端なのです。

しかし、木村さんは一つの問題を抱えていました。一週間以上するとご遺体はどうしても傷んでしまいます。ご家族に斎苑の保冷暗室への安置を勧めました。しかしご家族は、傍を離れたくないからと、忠義さん宅での安置を願っていました。木村さんにもそのご家族のお気持ちは痛いほど理解できます。考えた末、ご自宅での安置とし、木村さんは毎日、十キロのドライアイスを忠義さん宅へ運び、大義くんの胴体にあてて顔色をチェックしました。

この時、木村さんは上司から、大義くんの葬儀の弔問客は五十名ではすまないだろうと言われていました。千葉県は吹奏楽部が盛んな地域です。吹奏楽部人口が非常に多い。生前の大義くんの活動の繋がりを考えても四~五百人は下らない、もしかしたら七~八百人は見積もっておいたほうがいいだろう、そんな予想でした。木村さんはその時まさかと思いましたが、果たして結果はその通りでした。お通夜の日から数えて弔問に訪れた人の数は七百名強。告別式で演奏に再度訪れた人数を考えると、のべ一千人が訪れたことになります。お通夜の日、お焼香の列は二階ではおさまらず、螺旋階段を経て一階のロビーまで続き、一時は入り口を出て外の通りへ、駅の近くまで列が伸びていたといいます。近隣の住人が「今日は誰か芸能人の葬儀なのか」と通りかかった忠義さんに問うと「俺の孫だ」と忠義さんは答えたそうです。いくら吹奏楽人口が多いからといって、七百名強というのは凄い数です。大義くんの生前の交流の広さを改めて知らされます。

木村さんは、ドライアイスで大義くんの身体を冷やしながら、何度も「頑張ってくれ」「頑張ってくれ」と唱えました。大勢の人々に訪れていただいた時に、大義くんのお顔が見る影もなくなってしまっていたら申し訳ない。生前通りとまではいかないまでも、少しでもきれいなお顔で皆さんに最後のお別れをしていただかなくては…その一念でした。

それと同時進行で、木村さんは式の準備に入りました。祭壇に飾るお花は、生花部の古山健太郎さんがデザインを担当したそうです。木村さんは古山さんに、大義くんが愛用していたトロンボーンのロナウドを祭壇に飾れないかと提案しました。そして、音楽がとても好きだった人だから、音符のデザインにできないかと。

「音符ですか…」

と古山さんは知恵を絞ってアイデアを出してくれました。葬儀で使える花は限られていますし、祭壇に音符を描くといってもどのように配置していいものか。前例のないオーダーに頭を悩ませたそうです。そして、夜通し考えてデザインを仕上げました。

青や紫の花々を絨毯のように敷き詰め、そこから浮き上がるように白い花を音符の形に配置します。ちょうど運動部応援のスタンダード、人文字で作られたかのようなデザインです。祭壇の真ん中には大義くんの遺影。高校一年生の時の演奏会終了後の一コマでした。左手にトロンボーン、右手はゆるいピースサイン。おなじみのヘラっとした笑顔。

「なんでこの写真にしたんだろ…トロンボーン持ってるからいいなと思ったのかな」

以前、なぜこの写真にしたのですかとの質問をした時に、桂子さんは懐かしそうに遺影を見ながら笑いました。この写真の撮影も忠義さんです。演奏会の帰り、ホールの前で「一枚撮るよ」と忠義さんは大義くんに声をかけました。「え~でも、今から集合だし…みんな先に行っちゃったから早くいかないと…」とグズグズ言う大義くんに忠義さんは「一枚だけ」とシャッターをきります。皆の手前、家族に写真を撮ってもらうなんてカッコ悪い、でもジイジの気持ちは無碍にしたくない…となんとなくピースサインをして笑ってみた、というなんとも中途半端な笑顔。しかしその「どっちつかず」な感じが、大義くんの人柄をよく表しているようにも見えます。最初に私が動画を見た時の第一印象で「きれいだな…」と思ったあの祭壇のデザインが、こうして出来上がりました。向かって右手にはロナウドが飾られました。少し離れたところから、持ち主の旅立ちをそっと見守っているようでした。

実は木村剛さんは、大義くんの担当になった時、入社して半年も経っていなかったそうです。それまでは大手の葬儀社に勤め、主に仏壇などのアフターフォローを担当していたそうです。葬儀の現場は新入りの時に現場に入って以来、十年ほどやっていなかったことになります。大手の組織ではすべてが分担されていて、一つの家族にまるごと寄り添うことがどうしても少なくなります。そのため、木村さんは次第にやりがいを失っていきました。葬儀の現場に行きたい、と思ったそうです。どうして現場がいいのですか、と問いますと木村さんは少しはにかんだような笑顔をなさいました。

「おかしな風に聞こえるかもしれませんが…僕、葬儀が好きなんですよ」

私は少し驚きました。それだけだと少し誤解を生じさせる言葉かもしれません。しかし続けて木村さんは仰います。

「この業界の人間はみんなそうだと思います。逆に言うと、そうでなければやっていない」

具体的にどんなところがお好きなんですかと、少し興味本位で伺いました。木村さんは、やはりご家族の気持ちが感じられるからと言います。

「お一人の葬儀を出すのでも、葬儀はお金がかかります。葬儀社に支払うお金も決して安くはありません。でも、葬儀を終えたご家族は本当に心から「ありがとう」と言ってくださるんです。そう言われた時、本当に嬉しくて」

それはきっと木村さんが誠心誠意取り組んでおられるからだと私は強く思いました。身内を亡くされたご家族の心境を思えば、なかなか心からの「ありがとう」とは出てこないものです。それは故人とご家族のために何ができるか、最大限に努力したからこその関係なのではないかと思います。そして、その木村さんの誠意が、大義くんの告別式でも惜しみなく発揮され、最終的に「暖かで爽やか」と高橋先生が表現する葬儀になったのではないでしょうか。人生は最初も大事ですが、何より終わりが肝心。終わり方に人生の集大成がすべて表されるとしたら…。

大義くんが「葬儀が天職である」と信じていらっしゃる木村さんという担当者と出会ったのも、一つの縁であり、大義くんの持っていた人徳ではないかなと思いました。

部長だったのユナさんは、大義くんの訃報を学校へ行く電車の中で受け取りました。電車の中だから泣いてはダメだと思っても涙はあふれ出て止まらなかったそうです。大義くんへのビデオレターを作成した後、ユナさんは、高橋先生が「女子は耐えられないから会いにいかないほうがいい」と言っていましたが、ユナさんはどうしても会いたくて、一月八日に会いに行ったそうです。告別式の後、ユナさんから高橋先生へ宛てたメッセージからその時のことが書かれた部分がありました。引用させていただきます。

 

***

わたしが行ったときは、薬の影響で眠くなっていて、たまに起きて、また寝て、という感じで。声は出なくて、目も右目が微かに開く程度でした。それでも、わたしが話しかけたり、写真を見せると、頷いてくれました。手をあげてくれました。
大義だ。変わらない、大義。
「大義、また来るからね」
その日最後に大義に言った言葉です。
大義、大きく指でグーを作っていました。
その4日後、先生から連絡がありました。
「大義が亡くなった」
文字を疑いました。
何度、何度読み返しても、同じでした。
涙が溢れて、止まらなかった。学校でただ一人、大義のことで頭がいっぱいになった。辛くて、悔しくて、悲しくて、どうしようもできない気持ちでいっぱいで、何も言えなかった。
でも、一番辛かったのは大義。
一年半もの間、病気と闘ってきた大義。いつも、「ありがとう」と言っていました。
こちらが感謝する側なのに。大義の姿に救われた人は何人もいます。
***

 

大義くんの訃報は、高橋先生からユナさんへ、ユナさんから赤ジャのメンバーへとすぐに知らされました。誰もがその連絡を受け入れることができなかったといいます。

 

Aさんは、仕事場でその知らせを受け取りました。昼休みに更衣室で携帯開くとそこに信じられない知らせが入ってきていたのです。最初に思ったことは「会えなかった」ということ。同時にそのまま大号泣してしまいました。会いに行こうと思っていた矢先でした。「間に合わなかった」という思いが去来し、覚悟はできていたつもりでしたが、全然信じられず、受け入れられませんでした。安宅さんの心には、いつまでも元気な大義くんのままで時間が止まっていたのです。

Aさんと同じく、Iさんも仕事の休憩中に受け取りました。思わず「あ~!」といってしまいました。ついに逝ってしまった。「もったいない」と思ったそうです。自分にはない音楽の才能を持っている人だったはずなのに…。生きていればたくさんの可能性があった人なのに、と。

Sさんは、市船で大義くんと仲の良かったMさんと同じ大学に進学していました。たまたまその時、同じ授業を受けていた時に訃報を受け取ります。とっさにMさんには見せないようにしてしまったといいます。授業後、二人は一緒に泣きました。どうとらえていいか分かりませんでした。逝っちゃったんだ…と信じられなかったと。ただ、その瞬間に、共に泣ける人が一緒にいてくれてよかったと思いました。

男部で共に過ごしたTさんは、どこかで期待があったといいます。治るだろうと。大義くんが病気で亡くなるというシナリオを自分の中に準備していなかった、と。あんなに明るくて軽いノリでいつもふざけていた相手だったからこそ、この若さで逝ってしまうとはどうしても思えませんでした。現実味のない中、これを現実として受け入れようとしている自分もいた、といいます。

「大義が昨夜亡くなった。」

Nさんが授業を終わって携帯を見てみると、画面に高橋先生からのラインメッセージ

が表示されていました。その瞬間、何かが胸の中にドーンときたそうです。そこまで悪いと知らなかった、いきなりすぎる、突然すぎる、繰り返しそう思いました。しかし思いながらもどこか「そうなんだ」と冷静に受け止めようとしている自分もいました。その日(十三日の夜)、Nさんは忠義さんの家に行ったそうです。何度も遊びに来ていたはずのお家は、ただならぬ空気で満ちていました。浅野家の親戚の方も多く集まっており、大義くんのご家族は皆さんその場にいて、泣いていらっしゃいました。Nさんはそのご家族の涙が何よりも辛かったといいます。

大義くんは、居間で静かに眠っていました。死に顔はとても安らかで、眠っている感じでした。「何寝てんすか」と言えば起きてくるような感じすらありました。しかし、Nさんは同時に強い違和感も感じました。そこには何もないと思いました。大義くんはそこにいない。身体だけがある。なんの温度も感じない。生きていない。空っぽだ。そう強く思ったといいます。

「大義は、Nくんが最初に来てくれて喜んでると思うよ。微笑んでるでしょ?」

母の桂子さんが声をかけてくれました。Nさんは頷きました。最後に会った十二月二十八日の定期演奏会の日、「よう」と昔と変わらず手をあげてくれたことを思い出しました。車椅子で動けず、目も耳も悪くなっていて、周囲の友人たちへの返答もゆっくりゆっくりと話していた。それがNさんを見つけると一瞬だけ、昔のままの兄貴顔をのぞかせました。Nさんはそれがとても嬉しかったといいます。

14日の0時40分。

ユナさんのもとに高橋先生から長文のLINEが届きました。大義くんと交流のあった、各代の部長に回してくれといいます。その文を読んで、ユナさんは深く心を打たれると共に「先生、本気!?」と思ったといいます。が、市船スピリットの高いユナさんは、すぐに各代の部長にそのメッセージを投げました。とにかく、やろう。大義のためにやれることは全部やろう、と。気持ちは高橋先生と同じでした。

その高橋先生からのメッセージを全文ご紹介します。

***

大義が死んでしまった。悔しかっただろう。怖かっただろう。苦しかっただろう。何よりもっともっと生きたかっただろう。
大義の気持ちは、私たちにはわからない。
でも、もし自分が大義の立場だったら、それは考えられる。
大義の告別式。皆で演奏してあげたい。
もし私だったら多くの人に集まってもらい、演奏してほしい。
大義は音楽が何よりも好きだった。
目立ちたがり屋で、自信過剰で、でも誰よりも優しくて、人を想える人だった。
きっと大義は、先が長くないことをわかっていたと思う。けれど、そんなこと一度も私に感じさせなかった。いつも私のことを気遣ってくれた。
最も辛かった1月4日頃、LINEが来た。
「おはようございます。寝た切りの全介助ですが、体調大きな問題はありません!」
というものだった。そんなはずない。癌の痛みは酷いもので、モルヒネ無しではどうすることもできない状態だったのにこういうLINEを私にくれる大義の心遣い。大義の人を想う気持ちが溢れている。
なぁ、みんな、大義の為に演奏してあげよう。楽器から離れているなど関係ない。合唱もやろうと思う。最後は大義が作曲した応援曲 市船ソウル で大義を見送ろう。
みんな、忙しいだろうが、集まってもらえないだろうか。だって大義は死んじまったんだよ。でも、大義の魂に音楽を聴いてもらおう。
来週の金曜日がお通夜。土曜日が告別式。
土曜日の告別式の時に演奏しようと思う。
楽器車は、皆で折半してお金を出す。
楽器がない人は、その日、市船の楽器を使ってくれ。
浅野大義は、私たちの前で確実に生きた。生きていた。皆、それぞれ大義との思い出があるはずだ。
忘れない。
練習は木曜日。
取り敢えず、19時に市船集合。車での来校は厳しい。楽器の運搬上どうしても必要なら、直接私に言ってください。
曲は、今、考えているし、その日に集まったメンバーを見て考える。
大義の為に出来る限り多くの人に集まってほしい。
が、くれぐれも空気の読めない不謹慎な行動は慎むこと。同窓会でも何でもない。心ある人が大義の為に集まる日だ。
木曜日に練習して、土曜日の告別式ぶっつけ本番で行う。何よりも心が大切だと思う。楽器から離れているとか、そんなことはどうでもいい。大義を思う気持ちがあるか。もし、自分が大義の立場なら。
命は平等ではないね。
あまりにも早過ぎる死だ。仕事もしたかっただろう。結婚して家族もつくりたかっただろう。この若さで全てを断ち切られた。
どうか、大義の為に集まってほしい。
19日  木曜日  19時  市船
ユナをまとめ役とするので、参加する方はユナに連絡してくれ。

仕事、バイト、学校、万難を排して来てほしい。
いずれ、あなたも私も確実に確実に死ぬのだから。

高橋健一

***

 

「もし自分が大義の立場なら」。

高橋先生が、市船で一貫して教えてきた「自分がどうするか」という教え。その大前提になるのは他人の立場になって物事を考えられるという思いやりです。その最たるものを、市船生たちはここで提示されたように思いました。しかし高橋先生の言葉に命令や強制はありません。「どうか集まってくれないか」と繰り返します。この文章を見せてくださったのはYさんです。読みながら号泣してしまいました。そして、取材を通して一番大義くんが羨ましくなった瞬間でした。自分が死んだ時に、こんなに熱い言葉で自分のために訴えかけてくれる人がいるだろうか、そしてそれに応えてくれる人がいるだろうかと。

その呼びかけに市船生たちがどう応えたか、それを次にまとめていきます。

 

※※※

 

ただいま、絶賛上映中「20歳のソウル」引き続き劇場でお待ちしております!

 

※中井由梨子が『20歳のソウル』を書くにあたり取材した記録です。当時の様子が鮮明に書かれています。取材ノートのため、『20歳のソウル』に登場する人物以外の実名は伏せてあります。

 

©2022「20歳のソウル」製作委員会